池田義朗


来し方を振り返りて


 高度経済成長を遂げた昭和三十年代から昭和四十年代にかけて全国で海陸空一貫輸送業、倉庫業(主として輸出入貨物の保管)、乙種仲立業(通称通関業)等を併せ営む企業を合併させて企業の体力の増強を図ろうという目的からか通産省は合併を各業者に勧めた。京浜地区の業者、特に中小の業者の何社かが合併し、大企業では株式を東京証券取引所に上場しているN社とY社は同族会社であるという理由からか通産省は両社に合併を促した。約三年間の準備期間を経て昭和四十四年の十月Y社よりも規模の大きいN社がY社を吸収するという形で合併しY社の社名は消えN社の社名が残った。戦後の大型合併と各新聞社は報道し同業者を驚かせた。Y社の職員であった私は合併する前の或る日、社長から社長宅に来るようにと言われ、その晩訪問した。社長は私にこう言った。「Y社の運輸部門を独立させてY社の頭文字をとってYK社とし、二男の継芳に経営を任せようと思う、ついては君は合併後N社に移籍しないでYK社の職員として働いてもらいたい。給与面ではN社に劣るが、働ける間は働かせてやる。よく考えて見てくれ」と。その席には継芳氏もいた。N社に行くか、社長の要望にしたがってYK社に入るか、半月ほど考えた。N社に行けば給料は上がるが一階級降格となり五十五歳の定年を迎えた時それ以降働かせてもらえるかどうかわからない。それに比較してYK社の職員になれば一階級昇進し、定年後も働かせてもらえる。やがて役員にしてもらえるだろうという考えもあった。さてどちらにしようかと悩み抜いた。そんな時に「寧鶏口となるも牛後となる勿れ」という教えが頭に浮かんで来た。間も無くYK社に入る決心がついた。

 さてYK社は横浜市金沢区に一階が六十坪、二階も六十坪という事務所を既に建て、車庫用地数百坪を確保し発足の準備が進んでいた。Y社から移ってくる運転員は四十数名、整備士二名、重量物取扱い作業員(通称重量鳶)六名で車輛等はタンクローリー、トレーラー、貨物自動車を合わせて三十八台余りで得意先もY社の得意先を継承し、業務内容は輸出入貨物の運搬、石油類の輸送、メカニカルプレスや押出成形機の輸送と裾付け作業、各種内国貨物の輸送等であった。YK社入社後私は約十年間渉外を担当しその間系列のS社の代表取締役として二年間経営に携り、出向解除後は本社に戻り管理部の職員として働いた。やがて五十五歳の定年を迎えわずかな退職金をもらい、以後一年ごとに契約を更改する嘱託職員として働くこととなったが仕事の中身は変わらなかった。高度経済成長時代が過ぎて会社の経営も不況の関係で苦しくなり昭和五十六年九月、五十八歳の誕生日を迎えた私は嘱託契約満了と同時に退社した。

 私は社長に抗議をした。「YK社発足の時貴方のお父さんと貴方は私に『働ける間は働かせてやる』と言いましたね。何故その約束を破るんですか」と。社長は私にこう言った。「池田君、君も知っての通り経営不振で俺も責任をとって辞任することになった。君にも営業不振の責任の一端を担って辞めて貰わなければならなくなった」と。目に涙を溜めて。私は渋々この言訳を了承した。私は職業安定所に行き失業保険給付の手続きをした。保険金は給料の六割で、これでは生活出来ない。そこで早く再就職先を探そうと新聞の求人欄を見て訪問したり、職業安定所の指示に従って求人先へ行って面接したりしたが、適職にありつくことが出来なかった。そうこうしているうちにY社で昔働いていた先輩の山下氏から電話がかかって来た。「池田君、君YK社を辞めて事務の仕事を探しているそうだが俺の創ったT警備保障(株)で働いて見る気はないか、俺は第一線から身を引き昔Y社にいた阿川君達に経営を任せてある。一度会おう、細かい話はその時にしよう」と。たしか翌々日だったと思うが私は桜木町の喫茶店で山下氏と阿川氏に会った。阿川氏は常務取締役として社長を補佐している。山下氏は阿川氏に「池田君をT社で働かせてやれ、Y社で一緒に働いた仲間だ」と言った。すると阿川氏は「まず社長の了解をとろう。池田君が事務所で働くにしても現場を踏まないと(現場の仕事を経験しないと)事務所の仕事は務まらないと思う、三ヶ月くらい警備員として働いてもらったらどうだろう」と言った。私は「三ヶ月後に事務員にしてくれるならば結構です」と言って三ヶ月警備員として働く決心をした。山下氏は「俺が社長に話をしておくから会社から連絡があるまで家で待っていてくれ」と私に言い喫茶店で別れた。

 数日後山下氏から連絡があり「社長に話しておいたから明日にでも会社で入社の手続きをしてくれ」と言われ翌日会社に行った。会社は桜木町駅近くの小さな三階建てのビルの二階にあり、阿川常務に稲塚社長、小川事務員、倉本配置係、小口久子庶務係を紹介してもらった。そして配置係から警備員として着用する制服や誘導棒、安全帽、レンヤード等をもらい家に帰って配置係の指示を待つことにした。警備員は中高年齢者が多く、臨時雇が多かった。私の日当は基本給六千円、時間外手当は一時間につき九百三十七円五十銭、一ヶ月二十日働き、時間外労働四十時間としても合計で十五、六万円の稼ぎにしかならない。仕事の内容はガス管の修理、水道管の敷設、道路の舗装工事等の現場で通行人や車の誘導をすることであった。食事の時以外は腰をおろして休むことが出来なくて辛かった。三ヶ月現場で働き、それ以降職員として働くことになった。

 まず新規の得意先の開発を社長に命じられた。最初は庶務係にでもしてくれるのかと思っていたので驚いた。まずかつて在籍した学校の同窓誌を繰って同窓生の動静を探り、建設会社や土木工事会社に勤務している人達の名前と会社の所在地、電話番号等と自宅の所在地と電話番号などなど詳しく調べた。調べているうちに旧制中学を卒業して大学の工学部に進み大学院を出て、現在大成建設に籍があるという芝山清一郎君の名前が目に飛び込んで来た。一年後輩で自宅は京浜東北線の港南台駅の近くで、私の家から二キロ程離れた所である。早速自宅に電話をしてみた。彼は留守で奥さんが電話に出た。奥さんは「主人は大成建設を定年で辞め、現在東横線の菊名駅の近くの日建土木(株)の役員になって毎日通っています。夕方帰ったら話をして置きます」と言ってくれた。彼が帰宅した頃家を訪ねた。土木部長をやっているということも分り、何回も会社を訪れ取引が始まり、わが社の主要な得意先となった。会社の仕事に馴れてからは種々雑多の仕事をさせられた。やがて私の名刺の肩書きが常任監査役となった(渉外係が消えて)。

 ある夜、東横線の東白楽駅の筋向いの空地でガス管の取替工事が実施され、当社がその警備業務を請負った。配置係の倉本は若い警備員と六十歳台の塚本警備員を派遣した。彼は方々の警備会社で臨時雇として働き茅ヶ崎の自宅には時々帰る程度でほとんど外泊して過ごしていた。その彼が工事用のレッカー車の誘導をした。レッカー車がガス管を吊り上げて後ずさりに移動した。誘導をしていた彼は石につまずいて転倒した。それを知らずにレッカー車の運転手は停車せず彼を轢いてしまった。現場監督は急ぎ救急車の手配をし東神奈川駅近くの総合病院に搬送し手当を受けたが助からなかった。葬儀等は阿川常務が中心となって執り行われた。事故直後私は労働基準監督署に行き殉職した塚本警備員の保険給付の手続きをした。その時は塚本警備員の未亡人も同行した。女性監督官に書類を提出し、詳細に事故の状況を報告した。必要書類が揃っているということでこの監督官は出来るだけ早く保険が給付されるよう手続きを致しましょうと言ってくれた。未亡人に対する遺族補償年金の手続きでは難儀をした。会社として提出する書類は一応揃ってはいたが、塚本警備員は当社で支給した給料も他社から支給された給料も未亡人に渡していないので給料明細書が家に残っていない。未亡人は「主人が給料を家に入れてくれないので近くの会社で掃除婦として働いて生計を立てています」と監督官に包みかくさず言った。未亡人は私の耳元で「遺族補償年金は貰えなくても仕方ありません」と囁き、あきらめている様子だった。女性監督官は考え込んでいて言葉を発しない。

 その時隣の席に座っていた課長が口を開いた。「奥さん主人が一度も給料を家に入れないなんてことは考えられない。給料明細書が無くても家に給料を入れたことがある筈だ。よく考えてみて下さい」と。
 未亡人は「時たま家に帰って来た時に娘に小遣いだよと言って渡してはいました」と。
 課長は「全額でなくとも又証明するものが無くとも給料の一部を家に入れたという貴方の言葉を信じましょう。貴方も高齢だしいつまでも働けないでしょうし……」と言って女性監督官に支給の手続きをするようにと促した。未亡人は大変喜び、私も温情のある課長の決裁に感動した。保険金が出た後私は未亡人と息子さん二人を伴い葬儀屋に行き借りていた葬儀代を支払い、長者町で別れ、肩の重荷を降ろした様な気分で会社に帰って行った。


 私は終の仕事として書道教室の経営を前々から考えていたが、すぐにという訳には経済上からも無理なので勤めながら木曜日の午後だけ時間を貰ってやりたいと思い社長に相談をしてみた。社長は「仕事上支障がなければ木曜日と言わず週一、二回午後から休みをとっても構わないよ」と言ってくれた。妻も書道師範の資格を持っているので私が休みをとれない時は妻に任せることとし、昭和六十年十二月若竹書道教室の看板を掲げた。会員は小、中、高校生が主であったが近所の御婦人方も数名会員になってくれた。漸次会員も増えてきたので木、日曜日の二日授業日として対応した。そして数年後に会社を辞め書道教室の経営に専念することとした。





愛猫クロをさがして



 平成八年頃のことだったと思いますが、わが家の筋向いのOさんの家とEさんの家との間の路地に真黒な野良猫がどこからかやって来て棲みつきやがて四匹の子を生み、育て、居りました。
 私の家から四粁程離れた横浜市港南区に住む娘夫婦の一人息子、つまり私の孫の聡が猫が大変好きで私の家に来る度に猫のところへ餌を持って行って食べさせ又背中を撫でたり頭や喉を擦ったりして可愛がって居りました。そんなことを繰り返しているうちに、今度は親猫が我が家に餌をねだりに来るようになり、或る時聡が笹蒲鉾を与えたところ、それを喰わえて子猫のところへ持って行きました。そして何時の間にか親子五匹が我が家に居ついてしまいました。
 聡は高校受験を控えて居た関係もあってか気持が落ち着かず、聡の大好きな猫でも飼ってやれば少しは気持も穏やかになるだろうと考え、娘と相談して親猫に似た真黒な雄の子猫を飼うことヽし、残る親子四匹は今更もとの場所へ戻す訳にもゆかず、貰い手を募ることヽ致しました。

 
タウン新聞『パド』で貰い手を募る
 『パド』というタウン新聞の『差し上げます』という欄に掲載して頂き、貰い手を探しました。仲々貰い手が現れず、結局直線距離にして二粁程離れた港南台のH公園に持って行くことにしました。というのは公園の近くに住んで居る或る老婦人が奇特な方で公園に集って来る野良猫に朝晩餌を与えて居るという話を聞きましたので。
 可愛想なことをしてしまったと今では後悔して居りますが。正直なところ思い余って四匹捨てヽしまいました。

 
捨てた筈の親猫が我が家に戻って来た
 数日経って親猫が何処をどう辿って来たのか子猫三匹を公園に残して我が家に戻って来ました。可愛想になり、しっかりと抱きしめてやり、そんなに俺の家が好いのなら置いて上げるよと言いながら愛撫してやりました。
 そして妻と相談をして親子二匹飼うことヽし、雌の親猫をクロ、雄の子猫をタマと名付け、クロには赤い首輪をタマには濃紺の首輪をつけ、二匹とも家猫であると近所の人々に認識して戴けるよう配慮致しました。

 
飼育について
 餌は当初は罐詰の魚や煮干を与え、其の後は粒状のキャッツフードを主体として一日三回与えて居りました。然し孫から食べ過ぎると糖尿病になってしまうので一日二回にするようにと注意されその様に改めました。
 過ごしかたは昼間は外で、夜は家の中でと考えましたが、夜、出入口を閉めて置くと猫は逃げ道を塞がれたと思うのか一晩中起きて居て眠ることがなく、出入口を開けて置けと言わんばかりに障子を破ったり襖に穴を開けたりして被害が大きく而も騒々しくて私も妻も安眠出来ません。仕方なく昼は外で過ごそうとも又家の中に居ようとも猫の自由にさせて置き、夜は我が家の縁の下で過すよう段ボールと毛布と衣類を使って塒を作ってやりました。ところが夜クロとタマを野良猫が襲って来て、気の荒い雄のタマは応戦して毛をむしられたり、腕や足を噛まれたりして可哀想でなりません。然し前にも書いた通り夜間家の中に置く訳にも行かず、さてどのような飼い方をしたらば宜しいだろうと思案して居ります。

 
クロは抱いてくれとせがむ
 私は捨てたクロが戻って来た時以来クロを特別可愛がるようになりました。私が二階の書斎に居ると上って来て私が書きものをしている間は脇で眠って居ますが、私が手を休めて胡坐をかいて一服して居ると私の膝の上にのり抱いて呉れと私の目をじいっと見詰めて居ります。抱いてやると気持よさそうに眠ってしまいました。この刻は私にとって幸せを感じる一刻でした。

 
書道教室の生徒と猫
 私は昭和六十年の暮から平成十二年三月まで十数年間書道教室を営んで居りましたが、生徒達はクロとタマを大変可愛いがり背中を撫でたり抱いたりして遊んで居りました。然し勿ら生徒の中には玄関に居る猫達が怖いと言って二階の教場に舞い戻って来る小学生も居り、クロとタマの御陰で書道教室は明るく和やかな雰囲気に包まれて居りました。

 
猫につく蚤の被害
 クロとタマを家猫として飼いはじめて一年程経った頃に妻がクロやタマについて居る蚤に噛まれて腕や足が赤く腫れて痛み、皮膚科で治療を受けたことがありました。そのことを娘に話すと「聡の心を癒す為に猫を飼って呉れているのに、こんなことになってしまって申し訳ないわ・・・」と言って私達に詑びました。そして栄区鍛冶ヶ谷町のアリガ動物病院から薬を購って来て猫の首筋と頭と背中にすりこみ、私達に定期的に塗るようにと言い、その様にしますと蚤の被害は無くなりました。

 
クロの胃腸病の治療
 平成十六年七月のことですが、クロが咳をし、それが長く続き、苦しそうでしたので、前記のアリガ動物病院に連れて行き、診察して戴きましたら胃腸が弱って居て食べた物が充分に消化されず、胃腸に残った物を吐こうとして居るのだと医師に言われました。治療が終り、ペット用のケースに入れて病院を出て乗用車に載せようとした時、突然クロがケースの扉を突き破って外に飛び出し姿が見えなくなってしまいました。
 親の心子知らずと言いましょうか私達の善意を理解することが出来ず、只々束縛されるのが嫌で、自由になりたい一心で飛び出して姿を消してしまったのだと思います。

 
失踪したクロをさがし続ける
 私と妻はクロをさがし出そうと早朝に家を出てクロが逃げ出した場所の周囲をさがして歩き巡りましたが見つからず、前記のタウン新聞の「探して居ります」という欄に記事を載せて貰いました。その記事を読んだ本郷台のBさんから電話があり「探す方法として先ず掲示をすることです」と教えて呉れました。この方はボランティアで失踪した猫や犬をさがして居る人に力を貸して下さって居る方だそうです。
 早速クロの写真があったので十枚焼きましをしてB4の用紙の上部に貼りその下部に左記の文言を記してクロが居るかも知れないと思われる場所に掲示しました。

 記
 平成十六年七月十四日鍛冶ヶ谷二丁目のアリガ動物病院附近で見えなくなった中型の黒い雌猫をさがして居ります。保護して下さって居られる方は御連絡を御願い致します云々
若竹町三十三の八 電話八九四−〇一六八
 池田義朗

 この掲示を見た女子中学生から「本郷台のリリス(公会堂)の裏に居ます」との連絡があり、急行して見ましたが、残念ながらうちのクロではありませんでした。又栄区役所のN課長さんや新興宗教を信仰して居る六十歳台の御夫婦から連絡を戴き急行してその猫を見てみましたがクロではありませんでした。
 栄区役所の裏で朝五時頃さがして居た時犬の散歩をさせて居た老婦人が話掛けて来ましたので訳を話すと「朝五時頃と夕方六時頃野良猫に餌を与へに来る人が居るので野良猫が集まって来ます。見掛けたら連絡します」と言って下さいました。数日後その方から連絡があり、妻と急行しましたがクロではありませんでした。毎朝出掛ける訳を両隣の奥様に話しますと「犬は人につく猫は家につく」と言いますから必ず戻って来ますよとMさん宅の奥様から言われ慰められました。又希望も湧いて来ました。曽て一度は捨てたものヽ我が家が恋しくて戻って来たクロです。クロは私達の生き甲斐なのです。早く戻って来る事を妻と祈って居ります。

 
クロの幻影
 或る夜床に就こうとして玄関の電灯を消しました。外は明るくしてありますので誰か来ると硝子戸越しに見えます。何気なく外を見るとクロが腹をこちらに見せて万歳をして居る姿が現れました。一瞬のことでしたが。妻に話すと、貴方がクロのことばかり考えているのでそのように思えたのでしょう。錯覚ですよと言って笑って居ました。

 
タマはクロを恋しがって泣く
 クロが何時も二階の書斎に居た事をタマは覚えて居て、書斎に来れば親のクロに会えると思って書斎の入口で泣いて居ります。タマの為にもクロを探し出さねばと失踪した周囲を探し続けて居ります。 
(2006)




一隅を照らす


 甲府盆地の西部を南北に通っている富士川街道(国道五十二号線)の韮崎と小笠原の中間に町制は敷いていなかったが倉庫町という繁華街があった。この繁華街の東側が在家塚村で西側が飯野村であって遙か東方に釜無川が流れ、西にはアルプスの嶺が連なり、南には富士山を、北に八ヶ岳の峻峯を望むことが出来、郊外には桑畑が広がっていて、桃や葡萄や桜桃を栽培している果樹園も点在し、環境に恵まれたところであった。倉庫町には菓子屋、魚屋、豆腐屋、蒟蒻屋、食堂等が並んでいて、銭湯や郵便局や電灯会社やカフェなどもあり、芸妓を招いて遊ぶことの出来る料亭なども数軒あった。
 この倉庫町の中心部の西側に菓子、食料品、荒物、雑貨などを商う比較的大きな店舗の巴屋商店があった。店主は大森善四郎と言い、年令は四十台前半で、妻のさだ子さんの方が若干年上だった。目が悪くて殆んど仕事も家事も出来ず、娘の近子さんが大森善四郎氏の補佐をしていた。
 さて大森家は4キロメートルほど南に行った増穂町、長沢(新町)に在る上行寺が菩提寺であり、先祖代々の墓もその寺にある。善四郎氏は毎月のように墓参りをしていたが、それとは別に倉庫町の隣りの豊村にある林応寺の住職の私の父池田義信に帰依し、しょっちゅう寺に足をはこんでいた。父とは兄弟のような間柄であった。
 後年私は父と善四郎氏が親しくなった経緯を母に尋ねた。母が言うには善四郎氏が大きな悩み事を抱えていて父のところへ相談に来た。相談を受けた父の重ねての説教によって善四郎氏は悩みを解消することができ、それ以来親密に付き合うようになったとのことであった。私達兄弟三人を善四郎氏は可愛がってくれ、私達兄弟はおじいやんと言って甘えた。(以後おじいやんと記す)父は昭和二年の暮、水行を始めた。四斗樽に一杯入っている水を一日に数回被るという荒行である。元来丈夫でない父は水行を続けているうちに肺炎に罹り、翌昭和三年一月八日に死亡してしまった。三十六歳であった。父は病床で見舞に来てくれたおじいやんに義朗の面倒をみてもらいたいと懇願し、おじいやんは快く承諾してくれたとのことである。私は父の死後約一年間は母の実家である信州の寺で暮らし、幼稚園にも通わせてもらったが、昭和四年三月、おじいやんの使いで近子姉さんがわざわざ甲州から迎えに来てくれた。そして私は大森家の一員となり、おじいやん、おばあやん、近子姉さんと四人で暮らすこととなった。
 同年四月、飯野村小学校に入学したが、暫くの間は母が恋しくて泣いたこともあった。しかし次第に大森家に馴染み、小学校を卒業する頃には信州には帰りたくない巴屋にずうっと居たいと思うようになった。

教育熱心なおじいやん
 学校の定めた授業参観日には必ずと言って良いほど授業参観に来てくれた。だが学校で定めた参観日でなくても来てくれた。或る時先生が突然のこととて驚いて顔を真っ赤にして椅子をおじいやんにすすめたことが記憶に残っている。又こんなこともあった。匿名で職員室に半紙を大量に置いていった。寄贈文には生徒にわけ与えて下さいという意味のことが書かれていたそうである。翌日朝礼の時に校長から半紙の寄贈の話があり、即日一人に十数枚程度配られた。
 尚おじいやんは能筆で、私が二男であるにも拘わらず母は私を父の遺志を継いで僧侶にしたいとおじいやんに言っておいたので、僧侶は毛筆を使う機会が多い職業なので習字をしっかり勉強させようと御経の唱え方を教えると同様に力を入れて教えてくれた。

信心深いおじいやん
 おじいやんは前述の通り熱心な仏教の信者で、身延山久遠寺にも度々参詣し、法主(最高位の僧侶)とも親しくしていて参詣の度毎に面会していた。普通法主に面会するには予め承諾を受けなければならない。面会を許されても面会の日時を決めてもらわなければならない。又そう簡単に面会を承諾してもらえるものではない。おじいやんは法主の信用が篤かったのである。身延山久遠寺に参詣する時も甲府まで峡西電鉄(昭和三十七年頃廃線となる)で行き、甲府から身延線を利用すれば気楽に参詣出来るものを敢えて修業の為と言って飯野駅から青柳駅まで(約5キロメートル)峡西電鉄を利用し、そこから鰍沢、西島、早川橋を通って約24キロメートルの道のりを殆んど乗り物を使わずに徒歩で身延山まで行き、その日は坊(又は房)に泊まり、翌朝暗いうちに坊(又は房)を出発して久遠寺の朝勤に参加し、その日は所々方々にお詣りをし、前日来た道を帰って行くという参詣の仕方をした。
 それからおじいやんは家では毎日朝と晩の二回御仏壇の前に坐って御経を唱えた。音吐朗々と。唱える御経は法華経で、その中の如来寿量品第十六の偈(自我偈とも言う)であった。
 ついでに記すと御経の唱え方には真読と訓読があり、真読は漢文の棒読みで聞いていても意味が判らない。ところが訓読だとほぼ意味が判る。自我偈の真読の中に「一心欲見仏不自惜身命」というところがあるがこれの訓読は「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」である。これなら判る。この理解し易い訓読で御経を唱えれば好いのにと思うのだが僧侶も檀信徒もおじいやんも真読で唱えることが多かった。
 又私は偈の意味が判らず、ものの本で調べてみた。すると次の様なことが書いてあった。
 偈(梵語 頌と訳す)経。論などの中に詩の形で仏徳を讃歎し、教理を述べたもので、インドの詩型(梵讃)、中国の詩型(漢讃)、和讃等も意味する云々と。
 つまり偈は詩の形をした御経である。それ故にその韻律は聞いている人の心の奥底にまで沁みとおって有難いという気持にさせるのだと理解した。

貧しい人を救ったおじいやん

 当時この地方の農家は養蚕を主体として生計を立てている人、米や麦や野菜を作って生計を立てている人、果樹園を経営し果物を都会に移出したり、地元で販売したりして生計を立てている人その他であった。零細農家や小作人は家計の不足を補う為に道普請の臨時作業員になったり、他府県に出稼ぎに行ったりしていた。貧しくて食事にこと欠く家もあった。米や麦の不足を代用食で補う家庭も多く、子供が義務教育を終えるのを待って製糸工場等に就職させた家庭もあり、其の他の家庭では高等科に進ませ、上の学校に進学させてもらえる生徒はわずかであった。高等科を卒業した生徒は農業の手伝いをしたり、男子は生糸工場、商店、町工場で働く者が多かった。女子は製糸工場に就職する者が多く、又都会に出て働く者もいた。
 巴屋は商売が順調で利益もあがっていて貯金も出来た。巴屋は借家であったので新たに店舗を建てることをおじいやんは考えていた。
 しかしおじいやんはその貯金を取り崩し、食事を満足に摂れない人達を見すごすことが出来ず、その人達の為に使おうと考えた。
 又お金を恵むだけでなく自分達の食べる米や麦や芋なども分けてやり、代用食として唐黍の粉を原料としたアンビンを造って恵んだ。おじいやんは、はたの人にわからないようにお金や米や麦やアンビンを夜届けた。私もその使いをしたことが記憶に残っている。
 社会事業、慈善事業にも多額の寄付をしたが、常に匿名で行い、寄付者名簿には無名氏と書いてあった。

おじいやんの陰徳が新聞、雑誌に掲載される
 このようなおじいやんの陰徳を知った大日本雄辯会講談社は当時三百頁のボリュームがあり、ベストセラー以上の売れ行きで百四十万部を突破した程のヒット商品である雑誌『キング』に掲載し、その徳を讃えた。併せて同社は飯野小学校の校長に協力を求め、授業参観日を設けて貰い、終了後に父兄に講堂に集まってもらい表彰式を行なった。
 これと相前後して山梨日日新聞社の記者がおじいやんを尋ねて来た。おじいやんは特別善いことをした訳ではないので新聞に掲載しないでくれと言った。記者は写真と記事を掲載させて欲しいと言って引きさがらない。記者はおじいやんに近くの桃畑を見たいので案内してくれと頼み、誘い出して桃の木の梢を眺めているおじいやんを撮影した。
 翌日か翌々日か忘れたがおじいやんの写真と共に記事が掲載された。
 ちなみにこの山梨日日新聞社は明治五年に発足し、毎日新聞社に次いで全国で二番目に古いという歴史を持つ新聞社で、発行部数については昭和二十三年には毎日新聞社、読売新聞社に次いで全国で三番目という輝かしい実績を持つ新聞社である。このような有名な雑誌と新聞に同じ時期に掲載され、表彰されたということは庶民としては稀有なことであり、大森家のみならず郷土の誇りであろうと思うのである。
その後おじいやんは民生委員となり村の為に働き生活困窮者の救済を続けたが、昭和三十二年一月病の床についた。病床で法華経を口ずさみ同年三月十五日霊山浄土に旅立った。享年七十三。清廉高潔なおじいやんは一日一善を座右の銘とし、伝教大師最澄の「一隅を照らすものは国の宝である」と言う教えにかなった生き方をした人であったと思うのである。合掌

*参考資料
山梨日日新聞社発行『県民と歩む、本紙八十年の歴史』
朝日新聞社発行『西洋雑誌』
『キング』
交通日本社発行『全国貨物自動車営業粁程表』
小学館発行『あなたの法華経』
四季社発行『勤行要典』
『飯野小学校昭和十年卒業生名簿』
『広辞苑』

(2009)







 平成二十二年十一月二十八日に昨年亡くなった弟義孝の一周忌の法事を鎌倉の妙典寺で、義孝の長男の実君が施主となって執り行われた。二十数人の親類縁者が集まり、本堂で法要が営まれた。そして墓詣りを済ませた後、食事の用意がしてある客殿に移り施主の挨拶の後、施主の指名で私が献杯の音頭をとり食事が始まった。義孝の長女の順子さんが「皆様に御詣りをして戴いて父もさぞかし喜んでいることと思います」などと挨拶をしながらビールやジュースを注ぎ、一廻りして最後に私のところへ来た。ジュースをつぎながら意外なことを話し出した。
「おじちゃん! おじちゃんのお父さんは義信(ぎしん)と名乗る前は理右エ門と言ったんだよ」と。そして続けて何か言いたそうな口ぶりであったが、言葉をにごしてしまった。
「あんたは何故そんなことが判ったの? 私は父は生まれた時から義信(よしのぶ)と言い、お坊さんになってから義信(ぎしん)と呼ぶようになったとばかり思っていたが、順子さんはどうしてそのようなことが判ったの?」
「それがねえ、父が死んだ後にマンションの持主の名前を義孝から実に変更しようと思って、その手続きを司法書士さんに頼んだの、そうしたらその方が戸籍謄本が必要だと言って伊万里市役所から取り寄せたの、それで判ったの」と。
「うんそうか、それならその謄本の写をFAXで送ってくれないか?」
「わかりました。明日にでも送ります」
 ここでこの会話は終り、雑談に移った。食事の後施主のしめくくりの挨拶が終り散会となり、施主と遺族は残り我々一同は帰宅の途についた。

 翌日順子さんからFAXで戸籍謄本の写が送られて来た。池田一族の家系が詳しく記されている。思えば私達は結婚届を役所に出す時も亦色々な場面で戸籍謄本ではなく戸籍抄本で用が足りた。
 それにしても池田家の戸籍謄本を八十八歳になるまで一度も取り寄せて家系を調べてみるということもせず、悔いると共に自分の浅慮をさらけ出すようで妻にも暫らく言い出すことが出来なかった。

 さて戸籍謄本を調べていて父の名前のことだけでなく意外なことが判った。これには大変驚いた。私達は三人兄弟だとばかり思っていたが四男の一雄が居ることが判った。私は幼い頃の記憶を辿ってみた。朧気ながら次のような思い出が甦って来た。それは私が数え年で六歳、弟義孝が四歳の頃のことだったと思う。或る日の夕暮時に私は父に叱られて泣きじゃくりながら少し離れた所から父を見ていた。すると父は産衣のようなものを着せられた赤子を抱いていた。一雄の存在を知るまではこの抱かれている子は三男の義孝だと思っていた。然し年齢からして義孝ではなく生れて間もない一雄であったと推察することが出来る。そして一雄は昭和二年生れで、父は昭和三年一月死亡したので、それまで父と暮したとしても一年足らずの短い期間である。

 父が死去した後、母は信州安曇野の生家である一乗寺に引き上げる時、連れて行ったのは八歳の兄の豊と二男で七歳の私と三男で五歳の義孝の三人で一雄の姿は無かった。(翌年三月、私は甲州に戻り中巨摩郡飯野村の大森善四郎おじいやんの許で暮すことになったのであるが。)
 戸籍謄本に依れば一雄は飯野村の青柳順亨と母きんゑとの間で昭和八年三月、養子縁組をしたと記されている。恐らく一雄は産まれて間もなく青柳家に引き取られ、飯野小学校に入学するに当って正式に入籍したのであろう。そして青柳家には後継者が居なかったから父は順亨さんに請われて一雄を養子に出したと思われる。又他の理由で青柳家の養子になったのか、当時の関係者が他界してしまっているので調べようがないのである。
 順亨さんは年齢からして他界してしまっているだろうから、一雄は青柳一雄として多分飯野(旧飯野村)で暮らしているのだろうと思い電話番号を調べて見たが判らなかった。私は一雄の養父青柳順亨さんは名前からしてお坊さんだったろうと思い、同じ飯野の妙善寺に問い合わせてみた。案のじょう順亨さんはお坊さんであって福王寺の住職をしていて順亨さんの死去後一雄(僧名順良)が後継の住職となり、八十歳を越えてから弟子に住職の座を譲り、院首の賞号を宗務院から戴き、後進の育成と指導に当っていたが病気になり、南アルプス市野牛島の長女小野昌江さん宅に身を寄せ、現在入院加療中だという事が判った。
 私は色々と調べたことを整理してから小野昌江さん宅に電話をかけた。そして私と一雄は血をわけた兄弟であるという事を話し、一雄のことについて詳しく話し合った。昌江さんは「父は以前胃癌を患い手術をし、又二年程前に脳梗塞で倒れ、その時は車椅子で外出することが出来る迄に回復しましたが、今年再発し現在南アルプス市桃園の巨摩共立病院に入院しています。口から食事を摂ることが出来ず管で栄養を摂っていて話をしてもあまり理解することが出来ず、又話もしません。でも延命治療という訳ではありません」とのことであった。そこで何としても一度見舞ってやりたいと思い、昨年の十二月十二日に女婿に乗用車の運転を頼み、娘に付き添って貰って行くこととし前の日に準備をし寝る前に入浴をした。ところが心臓病の持病をかかえている私は入浴後狭心症を発症し苦しんだ。妻は「年寄りで病気持ちの貴方には旅行は無理だから止めときなさいな」と言い、私も断念した。妻から昌江さんに電話をかけて貰い、見舞に行くことが出来なくなった訳を話し、丁寧に御詫をして貰った。

 年が改り、今年の四月になってすっかり陽気もよくなり、この暖かさなら心臓に余り負担がかからないだろうと思って再度見舞に行く計画を立てた。念の為医師に相談をしてみた。医師は心電図を撮り丹念に診察をして呉れた。仲々好いとも悪いとも言わない。暫らく間を置いて言った。「余りすすめられないが、行くんだったら今使っているニトロベンとワソランを携帯して行って下さい」と。家族は「途中で具合が悪くなって旅先でお医者さんに診て貰い挙句の果てに入院でもするようなことになったら本人も辛いだろうし私達も困るからやめようよ。おじいちゃんの行きたいという気持はよく判るんだけど」と言って反対されてしまった。結局今回も断念することにした。

 四月二十一日、私は「一雄と携帯電話で話が出来ないだろうか」と昌江さんに電話で相談をしてみた。是非頼むという気持を込めて。すると昌江さんは「父はあまり返事は出来ないが、人の言うことは多少わかるようです。明日病院に行って父に話して父の耳に携帯電話をあてますので話をして見てくれませんか」と。
 四月二十二日午後三時三十分、昌江さんから電話がかかって来た。そして「父の耳に携帯電話をあてますので話をしてみて下さい」と。
 それを合図に私は叫ぶように喋り始めた。
「一雄! 豊兄さんも、お坊さんになるための修行をした俺も、三男の義孝も、みんな仏様のご飯を食べさせていただいて大きくなったのに誰一人としてお坊さんにならず、仏様に申し訳ないことをしてしまった。そのことをずうっと悔やんでいたが幸いなことに一雄が俺達の弟だということが最近わかり、そしてお坊さんになって俺達の分まで仏様の御恩に報いてくれて本当に有難う。心から御礼を言うよ」と言った途端に涙が溢れ出て来て声がつまってしまった。話の終り頃に一雄は何度も何度も「有難う!」と言い、私の話を理解してくれたようだった。    合掌
(2011)




池田義朗
大正11年山梨県生まれ、横浜在住
昭和60〜平成12年まで書道教室を経営
アジア文化社「文芸思潮」会員
全日書道教育協会同人
NHK学園短歌友の会会員
短歌結社運河の会会員
歌集「呟」「梓川」「中町通り」
刊行