時の止まった島・・・・・・・・・・・・・・・・・・井原博子




 「コーヒー牛乳、つくってあげよね。」

 そう言って、その島の婦人たちは、砂糖を何袋もあけた。大鍋半分山のように積まれた白砂糖に、牛乳数リットルとインスタントコ−ヒ−が入れられ、どろりとした液体が出来上がった。

 一口で優に一キロは太るかと思うほど甘く、私も、引率していた教会学校の生徒たちも、残してしまった。

 二十年以上前の、ハンセン病の隔離施設での出来事である。

 この病気の方々は、発病と同時に家族との関係も断たれ、外の世界とのつながりを失う人が多かった。特効薬が発見されたため、隔離されてくる同病者もいなくなった。男性は断種手術を義務づけられているから、新しい命の誕生もない。

 ない、ない、ない、で、高齢化だけが進み、砂糖が貴重なごちそうだったころで島の時間は、ほぼストップしていた。

 ハンセン病は、昔、癩病と呼ばれていた。罹患すると皮膚と末梢神経がおかされる。

 かつて人々は、この病におかされた人の身体が変形していくのをみて恐れ、神の罰を受けた人々として断罪、隔離していった。原因不明であったことと感染への恐怖が、差別に拍車をかけた。

 一八七三年、アルマウエル・ハンセン博士により「癩菌」が発見され、病の原因が判明した。

 日本政府は感染防止のため、一九O七年、法律「癩予防ニ関スル件」を公布。療養所を各地に設立し、患者を隔離していった。

 療養所とは名ばかりで、医療はおろか生活するための諸設備も整っておらず、軽症患者が重症患者を世話しなければならない状況だった。風紀も悪く、若い女性患者などは危険であった。

 劣悪な環境でも患者同志の結婚はあり、新しい命が宿る。しかしその赤ちゃんは、ほとんどの場合生きることを許されない。

 その頃出産した方が語られたという。

 産みの苦しみが終わり、赤ちゃんが産声をあげると、看護婦が現れた。笑顔で

「まあ、かわいい赤ちゃん」

抱いてどこかへ連れていってしまった。

「それきり、私は赤ちゃんを見とらん。殺されたんじゃろね」

「そういうことが、ようあった」

 一九一五年には、男性患者への断種手術が始まる。患者間に子供が産まれぬようとの政府の方針であった。当然、これには患者からの大きい抵抗がある。翌年、政府は、対抗策として、各療養所長に懲戒検束権を付与。手術を受けぬ者、反対するものを追尾・捕捉・拘束することを許した。

 当時、一般の人が恐れて足を踏み入れない療養所は、治外法権に等しい。トップの所長にこのような権威を与えたらどうなるか、容易に想像がつく。あくまで従わない者は、酷い目にあった。

 一九三一年、政府は法律を「癩予防法」に改正、全患者を強制隔離の対象とする。追って三六年、無癩県運動が始まる。

 発病すれば、有無をいわさず療養所に隔離される悲劇が始まったのである。

 私は、若い頃よく泊まりがけで療養所にお邪魔した。そのたび、みなさん、古風なおもてなしで歓迎して下さった。

 訪問が重なり親しくなるにつれ、隔離されたころの悲劇を淡々と語られる。

 病気は時と人を選ばない。発病すれば、待ったなし。伴侶・子供と引き離され、幼い者は親の元から引き剥がされ、療養所に送られた。

 悲劇は、発病や別離だけではない。一人癩病患者が出れば、残された家族も感染・遺伝の可能性を疑われ、あとあとまで結婚などに支障が出る。

 それゆえ、身内に病者が出ると、直隠しする。死んだことにして葬式まで出す。兄弟姉妹、はては、いとこたちの将来のため一切連絡を絶つように言い渡し、ひそかに療養所に渡す。患者の方も、入所後は出身地を隠し、苗字も変え、家族に迷惑の及ばぬように配慮することが多かった。

 療養所にある男性がいた。Nさんとしておく。

 Nさんは、親の安否が知りたくなると、ひそかに生まれ故郷へ帰り、人の通らぬ山道をたどって家の墓へ行く。墓石に親の名が刻まれていなければ、まだ生きているということである。それだけ確かめると、ひとまず安心。また山道を通り列車とバスを乗り継いで療養所へ帰ってくるのだ。   

 発病と同時に何も言わず家族の前から姿を消した男性もいた。

 政府の徹底した隔離政策は、この病への恐怖と偏見をかきたてた。

 ハンセン病者をここまで苦しめ続けた原因に、遺伝するのではないかという誤った認識があった。

 誤解は解いておかなければならない。

 癩菌は極めて弱い病原菌で、空気に触れると数秒で死滅する。大人はよほどのことがないかぎりうつらない。現に、療養所開設以来、医師・看護士・職員で感染した者は皆無である。

 この病原菌は、弱いがゆえに主に抵抗力の弱い幼児に感染した。

 昔、幼児は祖父母に子守してもらうことが多かった。抱っこにおんぶ……密に接触する。祖父母が保菌していた場合、感染する。癩菌は、潜伏期間が十数年と長いため、その子が発病するのは大人になってからである。

 ハンセン病はこのように、ひとつ世代をとびこえて発症することが多かった。隔世遺伝と誤解されていたのはこのためであった。

 一九四三年、プロミンという特効薬が発見され、ハンセン病は完治する病気になった。

 しかし、日本政府は、遺伝しないことも特効薬の存在も知りながら、その政策を変更しなかった。

 富国強兵のスロ−ガンを掲げた戦中はもとより、戦後一九五三年にしてなお、新たに「らい予防法」を敷き、隔離政策・断種手術を続けたのである。真綿で首を絞めるように患者そのものの根絶をはかる、ゆるやかなホロコ−ストに等しい。

 過ちを認め、補償金を支給したのは、やっと二一年のことである。入所者との裁判に敗訴したことで、しぶしぶ腰をあげた。

 現在日本には、一五のハンセン病療養所がある。

 どちらも風景美しく、所内には、主要な道に鉄の手摺が取り付けられ、バリアフリ−が配慮されている。病気になれば、所内にある病院で診てもらえる。

 入所の方には衣食住が保障され、年金も支給されてきた。所内には給食センタ−があり、食事は日に三度、配達される。マ−ケットもあり、所外へも自由に出入りでき、それなりに生活や旅行も楽しんでおられる。重度の後遺症を残す方と少し軽症な方たちは、助け合いながら、普通に生活しておられた。

 ほとんどの方は,癩病は完治している。万が一癩菌が認められれば、所内の病院で治療を受けられるのだ。

 しかし、程度の差はあれど、一目でわかる後遺症のため、社会復帰する人はわずかである。偏見や差別は、深く根付いている。

 隔離政策は、私たちの周囲からハンセン病の人を消した。母の世代でさえ、知る人は希になっている。

 あと二十年もたてば、日本から、患者も、療養所も消える。その人たちの味わった苦しみ、悲しみも、生きておられたということも、消える。

 私は二十歳の頃、滝山・曽我部さんという教会の先輩に誘っていただき、初めて療養所を訪れた。続く数年間、訪問を重ねる中、それと知らずに貴重な経験をさせていただいた。 独身で生意気な小娘だった私は、療養所の方たちを受けとめかね、理解も足りなかった。恥じるばかりである。

 その後結婚し子を産み育てるうちに、彼らの痛み・苦しみがどれほどのものだったのか、わずかに想像が及ぶようになった。おそれにも似た感謝が起こり、それは年を重ねるごとに、強くなっていく。

 見聞きしたこと、すべては書き切れない。何を書けば良いかも迷う。

 ただ、彼らを酷い目に合わせたのは日本政府であり、無関心だった私たちであること。光を知ったハンセン病者の方たちは、だれの想像も及ばないほど幸せであることを書き残しておきたい。

 二十数年前の、療養所の教会……

 礼拝前、あちらこちらで声が聞こえる。

「兄弟、感謝だなあ」

「ああ、感謝だ!」

 隣で、大きな声で祈り始めたご婦人がいた。およそ数十名、所内・所外の知人の名を挙げ、それぞれの方たちが持つ問題に解決が与えられるよう神に祈り、願っておられる。その方は、視力も鼻・耳も失い、髪もほとんど失われている。指のない棒のようになった手を合わせ、人のために必死で祈り続けておられた。

 ハンセン病は、昔「天刑病」と呼ばれていた。

 しかし、療養所のクリスチャンは言い切る。

「自分のように傲慢な者は、この病を得て苦しまなければ、イエス様を信じなかっただろう。

癩病になってよかった。

らいは、天刑病ではない。

天恵病である」