ふじさき正三





 平成七年一月十七日に起きた災害の日を私はあえて「悪魔の日」と読んでいる。
 あの悪魔の日まで、西宮の郊外で妻娘息子四人、三年間かかって建てた木造の家で平和に生活していた。一瞬にして悪魔が訪れ、新築の建物は倒壊し、一人娘は死亡した。街は、地獄の街と変わり、病院も地獄絵のようであった。息子は足を折り、妻はこころの病気、私はうつ病、娘は家の下敷になり死亡した。それからというものは、生活も成り立たず、かろうじて生きて行くのが精一杯だった。
 それから一年、仮設住宅で生活し、苦しい生活だった。そして五十二歳のとき、災害のつかれがでたのか、脳内出血で入院した。
 苦しい治療とリハビリも終わり、ようやく、右足右手が動き、左半身は「マヒ」が続き、後遺症のせいか左手はまったく動かず、右足は少し動くので杖をつきながら少しずつ歩ける状態である。だがしびれと痛みはある。
 そのときは、生活保護を受けるため、妻とは離婚し、息子は別生活となっていた。
 病院生活は五年続いた。その間に六回、病院を変わった。その挙げ句、福祉住宅が与えられ、一人の生活が始まった。ヘルパーさんは毎日二時間だけきてくれた。それからは一人で杖をついてゆっくり散歩にいったり病院にいったり、食事は一日に一食だった。散歩の途中バランスがくずれ倒れることがしばしばあったが、誰も助けてはくれない。服が汚れたまま、人目を気にしながら住宅に帰ろうと思うがなかなか進まない。そのときばかりはいっそのこと、ここで死んでしまいたい気持ちになった。汚れたまま眠ることもあった。
 毎日毎日ヘルパーさんを待つのが仕事だった。夜になるとヘルパーさんも誰も居ない。
 テレビも見なかった。
 どうしたらみんなに迷惑をかけずに死ねるのかと考えていた。夜、住宅の前の廊下を人が通るたびに胸がドキドキして、あの悪魔の日のことがよみがえった。恐怖心がおとずれ、早く朝がくればいいなあーと思ったことが何度とあった。一人でいると恐怖心がだんだん強くなり、一日、一食の食事もとれなくなり、ある日、体調も悪く、痛みも強くなり、救急車で入院することになった。病院では心が落ち着いた。病院にいると人が多くいる。人に会える。不安感もなくなっていった。うつ病はなくなったが、病院の主治医、カウンセリングの先生、息子と相談の上、一人で、住宅では暮らせないと判断され、現在の施設に入居することになった。入居すると、不思議なことに不安な気持ちもなくなり、安心感が生れてきた。もう一人生活は出来ない。他人にはわからないだろうが、私には苦しみ、悲しみ、痛み恐怖感が訪れる。これは自分自身しかわからないことだ。
 私は悪魔が訪れたときも、脳内出血で倒れたときも病院にいていつも「いのち」の重さを考えた。病院では一日一人は死亡していく。私は子供のころ、人もほかの生物も結婚すれば子供が生まれるのは当たり前だと思っていた。ある本の中に「人間が生まれることは有り難いことなんだよ」とあり、「ほかの生物は有り難くないのか」と思うようになった。人間が生まれたことが、それほど喜ばしいことであるのかを知れば、この世の中から自殺や殺人や戦争もなくなるはずである。
 あるテレビ番組で、ある小学校の子供たちに死のイメージについて聞いていた。
 その子供たちの多くから「今の世の中では、死んだほうが楽になれる」とか「別の人間としてもう一度やりなおせる」といった答えが返ってきたことにはびっくりした。
 多くの子供たちは「生き返る」と答えている。こんな安易な生命観を持っているため、自殺したり、他人を傷つけたりする子供たちが増えているのだろうか。またテレビやゲームの中で殺人シーンが増えているのは現実だ。例えば時代劇で殺された俳優がすぐ別の番組で登場する。子供たちが「生き返る」と錯覚するのも無理もない。
 ニュースでも戦争やテロで人が死んでいく姿が毎日のように報じられている。国家が「国のために」と正当性をうたって武力行使している姿を見受けられる。果たして尊い人の「いのち」を奪う「正義」など、この世の中に存在するのだろうか? 本を読むと、よく「人間のいのちは地球より重い」といわれているが、それには大きな矛盾を感じている。
 かけがいのない尊い「いのち」の重さの言葉を一人ひとりが深く胸に刻まなければならない。
 私はあの悪魔の日に「いのち」を助けられ、また病院で「いのち」を助けられた。
 そして一人での生活の苦しみなど、この震災後いろいろなことを体験してきたが、今が一番、充実した生活を送っているが、いまあの悪魔の日を想い出すと恐怖感がおとずれ、想い出したくない日が続く。それは私が死ぬまで続くだろう。そして病気で左半身「マヒ」となり左半身の痛みも死ぬまで続くだろう。これも自分との闘いだろう、この闘いも死まで続くにちがいないと想いながら今、施設と言う箱の中で生活し、この箱の中で生き、鳥のように死んでいくと想うと悲しくなるときがある。でもこれが私の運命かも知れない。この運命にうち勝つように生きていくしかない。

「ガレキの中で」
私はあの悪魔の訪れのとき
私は壊れ
言葉を失いました
でも……
あの倒壊した
ガレキの中から
這い出てきたのは
やはり
言葉と心
によって、
生きる力が、
湧き上がって
来ました。
「痛み」
私は今、
脳内出血のため
施設で生活し七年近くになる
後遺症のため
左足は少し動くが痛い
左手はまったく動かないが痛い
「ずう〜と、ずう〜と」
左手はしびれて痛く
時々、
いっそのこと
切ってほしい気持ちになる
他人にはわからない痛みだ。
毎日、痛み、苦しみに耐え
生きている私。
なにか……
夢と希望が
もてないかと思う
私は考える。
でも……
これが私の運命だ
(2008)


少年の頃の悲劇の体験


 私が小学校六年生のとき、秋も深まり、山から公園にかけて、もみじで真っ赤な色に染まった秋のことだった。突然大雨が降り強い風が吹き、その大雨で川の川下の水が増水し数軒の家が水に流された。
 私が住んでいる裏山の森の杉の木、檜、モミの木、竹の擦れ合う音、濁流の激しい音、強く吹く風の音、大雨が降る音で山全体が地鳴りがし、それは恐ろしい夜だった。
 翌朝、大雨も大風も止み、青空が顔を出し、いつもの森の妖精が舞う自然の森に戻った。私は親父と一緒に大雨、大風が通ったあと森に入ると、吃驚した。昨夜の大雨、大風で、杉の木、檜、モミの木などが複雑に倒れ、滝から流れる美しい水も真っ黄色に染まり、岩はゴロゴロして森の美しさもなくなり別世界に思われ、悲しい心になった。大自然のおそろしさを身体に感じた。
 私の住んでいるところは、冬には一メートルぐらいの雪が積もり、山一面が真っ白な雪景色になり、山から吹き降ろしてくる風はとても寒くてクーラーのような風だ。
 春になれば山の森の小鳥がさえずり、朝は小鳥の鳴き声で目が覚める。川の両堤にはれんげ草、なたねの花、いろいろな野の花が咲き、のどかな美しい風景だ。夏には森の奥から自然の涼しい風が吹き、この近隣は、真夏でもクーラーをいれている家は一軒もない。滝から流れる水は氷のように冷たい水だ。
 それでもいったん大雨が降ると、穏やかな川の流れも悪魔の川に変化し、美しい水も真っ黄色に変わり激流となって流れていく。
 私と西本健吉(以後健)、井阪加代子(以後加代)とよく川に魚を捕りに行き、森ではカブト虫、クワガタ虫などを捕って遊んでいた。お腹が減ると畑でトマト、桃、柿などを食べながら遊んだものだ。
 大雨が降った後、川につないである木材の下には多くの魚が隠れているので、私と健と加代の三人で魚を捕っていると、祖父がやってきて、「水が増えているので木材の上で魚捕りをしないように」と注意され、加代は土手に上がった。私と健は祖父に注意されているのに、魚がたくさんいるので夢中で魚を捕っていた。
 そのとき、突然木材をつないでいたロープがブチと音を出して切れ、私と健は木材と一緒に川に落ち、私は少し手に痛みを感じた。
 加代が祖父に「私と健が川に落ちた」と叫んだ。私と健は激流に呑み込まれ、手足をバタバタさせていると川上からやや大きめの丸板が流れてきた。私と健は無我夢中で丸板にしがみついたとき「すぐ助けに行くから頑張れ」と言う祖父の声がかすかに聞こえたが、川の水は速く、どんどん川下に流され、私はそのときはもう駄目だと思った。
 川の流れは速く小砂や小枝が身体に当たり痛みを感じ、持っていた丸板から離れそうになったが私と健は一生懸命激流と闘っていた。そのとき私が健に「大丈夫か」と聞くと、健は小さな声で「大丈夫だ、でも体が寒くて痛い」と返事があり、私は少し安心した。健は西本家では長男で、上には姉さんが二人いる。川の流れは速く小砂や小枝と一緒にどんどん流されて行く。少し川の流れが緩やかなところにやってきたとき、空に暗雲があらわれ雷が鳴り、光が起こり、黒い雲から光が輝いた途端ゴロゴロと雷が鳴り大粒の雨が降り出し、その雨が頭や顔に当たると痛みを感じ、前が見えないほどで、川の水はどんどん黄色になっていき、身体は小砂や小枝がますます当たり、痛みや寒さで手足がしびれ、また恐怖を感じた。そのとき横で懸命に丸板につかまっている健の顔を見ると、真っ青な顔をしていた。
 それと健の頭から少し血が流れていた。私は健に「頑張ろうな」と声をかけると健は少し頭をふった。私も一生懸命だったので同情もできなかった。川の水は冷たく、ゆっくり流れるまま流されているとあの恐ろしい黒い雲もなくなり、大粒の雨もやみ、真っ黄色の川の色が目に飛び込んできた。
 そのとき空を見上げると黒い雲の隙間から光が差して、私はその光を見て「大丈夫、健、光が差している」と言うと健は頭をふるだけだった。そのとき、私は誰かから声をかけられている気がした。森の妖精かもしれない。「お前は森の子だから助かるよ」と言っているような気がした。土手の方を見ると、川船が二人に近づいてくるのが見えた。しかし、私も健も手足がしびれ、丸板を持っているのが精一杯だった。
 突然健が小さなやつれた声で、「おれ、もう駄目だ」と言って丸板をつかんでいた手を放し、どんどん真っ黄色の水に流されていった。
 私は大声で「健、健」とあるだけの力を出して叫びつづけたが、健はどんどん流されていった。私の頭の中は真っ白になり、自分のことで精一杯で、健が溺れている姿に気付かず呆然と丸板をつかんでいた。
 健が急流に呑み込まれた直後、祖父の川船がやってきた。祖父は怖い顔をして「健は」とたずねた。私はその瞬間「急流に流された」と言うと、祖父が土手にいる人に大声で、「健吉が流されたぞ」と言った。
 私は祖父の船に助けられたが、健のことが心配でならなかった。なぜ森の妖精は健だけを急流の中に流したのかと思った。
 船の中で頭を押さえてみると手に血が多く付いていて、体も痛くてたまらなかった。祖父が頭にタオルを巻いてくれ、布団を掛けてくれた。土手の上には救急車が止まっていて、村の人、消防隊の人たちが「健、健、」といって捜していた。
 私は救急車にのったとたん意識が遠くなっていった。救急車には両親と加代がのり病院に運ばれ、祖父は健を捜していた。私は救急車の中で「健は大丈夫か」と言っていたそうだ。
私が気が付いたときは病院のベッドの上で、私の横には加代が心配そうに座っていた。私は、まだ体が痛くてたまらないが、加代に「健は?」と訊くと、加代は涙を浮かべ「まだわからない」と答えた。私と加代が話をしていると、両親と医師、看護師がやってきて、看護師が「心配しないで」と言ってくれて、私は少し安心した。看護師から「心が安定する薬が出ていますので」と言われ、私はその薬を飲んだ。
 廊下で医師と両親に言っている声が聞こえる。
「痛みが取れるまで入院しましょう」と言っていることがわかった。私は薬が効いてきたのか体が暖かくなり寝てしまい、そのまま一日中寝ていた。加代は私が寝ているときでも時々見に来ていた。私が眠りから覚めたとき、加代がいった。私が寝ているときでも、うわごとで「健、頑張れ、頑張れ」と言っていた。
 翌日、警察から「川の水が引いて、川の川下の河原に健君らしい少年が上がった」と西本の両親が聞き、急いで河原に行った。私は医師から外出の許可をもらい、祖父と加代と一緒に河原へ急いだ。その途中私は健でないようにと思った。
 行ってみると西本の両親、姉二人も泣き崩れていて、私は瞬間夢であってほしいと思ったが、それは現実だった。なぜ森の妖精は健の命を取ったのかと思った。そのときは健が死亡したとは思いたくなく、涙も出なかった。加代も同じ気持ちだと思った。
それから私は退院して通院に変わった。まだ学校に行ける状態ではなかった。それから四日目に担任の先生が家にやってきて、加代とは同じクラスだ、先生は「加代子さんにもいっておくから一緒に学校にきてごらん」と言われたので、私は加代と一緒に学校に行ってみた。
 教室に入ると健の机の上には花束と暮らす全員の寄せ書きがあった。先生から、一緒に書いてくれないかといわれたとき、今まで溜まっていた涙があふれるように流れ止まらなかった。健が死亡したときは涙が出なかったのに、どうしたことか次から次へと涙があふれてきた。加代も同じ状態であった。
そんなことがあって二日後に健の告別式が西本家で行なわれた。その時は健の母さんは少し気がおかしくなり病院に入院していて、健の告別式には参加しなかった。
 健の仏壇にはクラス全員の寄せ書きと花束と健が好きだったものが供えてあった。
 加代が健にお別れの言葉を朗読したが、そのとき涙が止まらず、加代も泣きながら懸命に朗読した。あちこちからすすり泣く声が聞こえる二百人ぐらい仏壇に花をおき、最後に父親のお礼の言葉を言って告別式は終った。私は学校が終ると加代と一緒に健の仏壇に今日あったことを伝えた。

 ここで私は健に対する詩を作ってみた。

  ふり返ると十一年の道が
  ちゃんと道ができている
  天国の道が
  いっぱい、いっぱい
  遠いところにいったけど
  まだ、まだ
  楽しいことは途中だ
  これから、いっぱいいっぱい
  楽しい天国の道へ

 この話は私が今から五一年前の頃のことである。今も思い出せば考えさせるものがあった。
 私は現在身体障害者で施設で生活している。
(2009)



難病苦闘から穏やかな少女の死


 私が脳内出血で倒れ、入院していたときのことである。
 ある夏の夕暮れ、あまりにも夕焼けが美しいので、車椅子で屋上に出て夕焼けを眺めていた。そのとき、お母さんらしい人と車椅子に乗った十五歳ぐらいの女の子がやってきた。お母さんは、
「夕焼け、きれいですね」
 と話しかけてきた。私も、
「そうですね」
 と返事をし、お母さんと私の病気のことなど話をした。娘さんの名前は藤田理美、お母さんの名前は愛子、といった。私が、
「娘さんの病気は」
 と尋ねると、愛子さんは涙ぐんで私に話し始めた。
「理美は生まれつきの難病で無痛汗病という病気です。痛みと汗腺をつかさどる神経の働きが弱いため、痛みもほとんど感じず、汗もあまり出ない病気で、腿の下がぱんぱんに腫れてガンの一種の骨肉腫であることには本人も周囲も気付きませんでした。ある大学病院で左腿から下を切断し、その後四回転移し膵ガンの手術を受けました。抗ガン剤の効果はあらわれず、放射線治療に望みを託してここの病院に入院しました」
 愛子さんは涙を流し、
「この子はあと一年か二年の命と主治医の先生から告げられています。この子もそのことは知っています」
 と話していた。私は返事もできず理美さんを見ていた。私は涙がこぼれだし、理美さんも泣きながら、
「お母さん、私、家で死にたい」
 と言う。と愛子さんは、
「何を言うの」
 と言葉を返した。
 三人の間には沈黙が続いた。もう夕焼けも落ち、空は少し暗くなり始めたとき、看護師さんかが呼びに来た。愛子さんから、
「話を聞いてくれてありがとう」
 と言われ、私は、
「また、会いましょうね」
 と言った。理美さんに、
「頑張ってね。私も頑張るから」
 と理美さんの手を握った。理美さんが笑顔で、
「おじさんも頑張って」
 と言ってくれた。病室に帰る途中も涙が止まらなかった。帰る途中、いつもの看護師さんと話した。看護師さんは、
「病院はいろんな悲しい人、苦しい人が多くいるところよ」
 と言う。私はつくづく思った。自分の病気はまだまだ軽いのだと思うようになった。
 それから数日後、いつもの愛子さんと理美さんの姿が見えなかった。私は車椅子で理美さんの病室に行ってみた。病室は白い天井に白いカーテン、廊下を慌ただしく人が行き来し、機器類の電子の音が耳に障る。誰か亡くなったのかと思い、理美さんの部屋をみるとベッドの上の白いシーツが取り替えられていた。私は心配になり、いつもの看護師さんに聞いてみた。家族と本人の希望で人工呼吸器をつけたまま自宅に帰ったそうだ。私は屋上で理美さんが言っていたことを愛子さんは実行したと思った。
 それから数日が経ち、玄関の待合部屋にいると、玄関から理美さんのお母さんが入ってきた。私は、
「理美さんはいかがですか」
 愛子さんは涙を流し、
「あの子は病院から自宅に帰って四日目に自己呼吸が止まってしまい、機械で丸一日生き続け、五日後の夕方静かに家族全員に見守られながら短い生涯を終えました。本当に家に戻れてよかったです」
 と言った。私は涙が流れてきたが、愛子さんは悲しいのをおさえ、私に笑顔で、
「おじさんも早く家に帰れるといいね」
 と励ましてくれた。手を振りながら病院を後にした。私は愛子さんが見えなくなるまで手を振って別れた。
 それから時々愛子さんが見舞いに来てくれるようになったが、私は阪神淡路大震災で娘を失い、愛子さんは病気で娘さんを失った。
 災害や、病気や事故で若い命が失われることは、本当に悲しいことだとつくづく思うこの頃である。
(2009)


 
ふじさき正三
山口県岩国市生まれ
神戸大学卒業後、トヨタ自動車工業欧米支社勤務
左上肢機能全廃、左下肢機能障害で身体障害者2級、介護2級施設で生活