傑作と風化・・・・・・・・・・・・・・・・・・久市巳太


 小説、漫画、ゲーム、映画など、分野は何でもいいのだが、後世に多大な影響を与えた革命的作品と呼ばれるものにふれ、「ありきたりだ」とか「古臭いな」などという失礼な感想を抱かれたことはないだろうか。実を言うと私はある。それも大いにある。実名をあげようものなら嘲笑と罵声を免れえないほどにある。ただ、だからといってそれらの作品に対する評価が低いか、といえばそんなことはない。感想と評価は別物である、ということもあるし、何より革命的作品とは本来そのような性質を持たざるをえないように思われるからだ。
 分かりやすく、かつ当たり障りのない例としてマキアヴェッリの『君主論』とクラウゼヴィッツの『戦争論』をあげてみよう。前者は政治と道徳は分けて考えるべきとして、近代政治学の先駆けになったとも言える作品であり、後者は主にナポレオン戦争での経験をもとに、戦争とは何かということを考察した近代軍事学の教科書のような存在である。共に歴史上大きな影響を及ぼしたそれこそ革命的作品であるが、二十一世紀の現在、この両者を読んで衝撃を受けるような人は成長途上の青少年を除けばまずいないだろう。なぜならば我々は両者によって変化してしまった世界に生まれ育ったからだ。物心がついた時から常識である事柄について、それが常識となるきっかけとなった作品や事件を知ったところで「ああそうなのか」程度の感想しか抱けないのは無理からぬ話。むしろそれゆえに参考としてあげられている具体例などから当時――片や十五〜六世紀のフィレンツェ、片やナポレオン戦争の時代――の「時代の雰囲気」とでも呼ぶべきものが感じられるあたりは非常に興味深いところだ。
 それにしても上記の例はいささか極端に過ぎたかもしれない。そこで冒頭にあげたような娯楽的分野を意識した上で考えてみたい。そもそも影響といえば聞こえはいいが、一つ間違えればそれは模倣、悪くすれば盗作とも取られかねない危険性をはらんでいる。オマージュ、盗作、パロディ、模倣、パクリ、影響、リスペクト・・・これらの区別をどうつけるかは実に難しい問題だが、追随作品に対する受け手の愛情の量に左右される部分も大きいだろう。とはいえ、追随者も単なる模倣だけでは終わりたくないはずだ。となれば必然的に元となった作品の革命的要素は更なる進化をとげるか、洗練の度合いを深める。あるいは別の要素において進化や洗練が見うけられる。このような状況下では革命的作品の革命的要素はもはや普遍的一要素に過ぎず、他の部分で見劣りするものになりやすい。結果として「ありきたり」だの「古臭い」だのという感想を抱かれることも致し方ないことだろう。しかしそれは、いやそれこそはいわば世界を変えた何よりの証拠であり、ある意味栄光であるとさえ、言えるのではないだろうか。
 なお、「傑作はいつまでも色褪せることがない」といった意見もしばしば見受けられるが、さほど真に受ける必要はないだろう。正直、私もその手の感想を抱くことはある。だがそれはほとんどの場合、以下にあげる三種の理由に当てはまってしまう。
 1 リアルタイムで体験したので当時の衝撃と興奮と感動がスパイスとして作用する。
 2 傑作であるとの評価が確立された上で接するため、その先入観がスパイスとして作用する。
 3 十代の頃に体験している。個人差はあろうが十代は世界に対する認識が飛躍的に広がる時期。その頃に接した作品は、たとえリアルタイムでなくとも十分に衝撃、興奮、感動をもたらす。それが後々までもスパイスとして作用する。「若いうちから古典を読め」などといわれるのは案外このためかもしれない。
 この三点に当てはまらない場合、やはりピンとくることはなく、芳しい感想は抱きづらい。しかしそれによって自分の感性を疑う必要はないだろうし、逆に自分には無価値であると断じてしまうのもつまらない話だ。むしろ、そのことまで含めて楽しむ材料にしてしまえばいい。当時衝撃的だった内容が現在ありふれた要素になるまでの過程を、追随作品をからめながら考えてみるのも楽しいし、衝撃を受けた当時の人々の意識、それ以前の時代の雰囲気に想いをはせてみるのも一興だ。もちろん、ここまで述べたようなことはひとまずおいといて、現在進行しつつあるかも知れない革命的変化に目を向けるのもいいだろう。いつでも、どんな分野でも、革命的変化は起こりうるものなのだから、リアルタイムでそれを体験する機会を逃すのはもったいないというものだ。というわけで、書き終ったところで何か面白いものでも探しに行くとしようかな……。
(2010)