世継ぎ 皇室と我が家と・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンガ・チンゼン



いっとき「雅子さま重大決心を」とか皇室のお世継ぎを巡ってメディアはかしましかった。義弟の嫁さんの紀子さまが三人目のお子を宿され、それがもしかしたら男子かも知れない、いやそれももう三ヵ月は経っているのだからみる医師がエコーで見れば性別は分かるはずだ。それで男子らしいとなって、そうであればまだ皇室典範は、皇太子の第一子に女であれば女帝として継がせる方向でと改正答申が出たにも係わらず男系男子を望む関係周辺の声に押されて、見直すと小泉首相は直ぐ言ったりしていた。

史上女帝はいくらでもあったし、この、男女共同参画をグローバルの立場で達成して行かねばならない責務を負っている小泉さんは何という腰砕けな情けないお人だ、というのは、メディアじゃなくて男女共同参画和光プラン推進委員をしている私である。

一九八五年女性差別撤廃条約を日本も批准した。これに基づく男女共同参画をあらゆる局面に於いて実現すべく内閣府に男女共同参画局を置き、内閣官房長官が男女共同参画担当大臣となり各市区町村に男女共同参画を推進する組織をおくことが求められるようになった。

そこで、ここで男女平等の推進で男系の姓が家の姓となるのが減り、家が夫婦別姓、親子別姓、姓の個別化が図られていくのを見届けようとしている。

私が何でそんなものをしているか。そこですよ。なんかよく分からないけど女性が強いというか男性である私が弱いというか、女児ばかりで、いまのままでいくと、上の子は学生のうちからさっさと相手をきめて卒業と同時に嫁いでしまって産休先生(お産で正規の先生が休んでいる間の代用教員)と妻をやっている。しかも相手は長男と来ている。

お婿さんを貰って芳川の名を戸籍に留めてなどと言いだす暇も無いうちにけりがついちゃったって感じだ。

次の子も学生の最後の年であるこの三月に付き合っている相手を連れて来ちゃった。何もそんなに急ぐこともないのに。就職もしたので文句も言えない。

大体うちのかみさんに似てみめ美わしいというには無理がある。だから、行く先がなくて長く家にいて何処かから連れ合いを探して来ることになる。そうすればこちらの思い通りの男性を探せるチャンスはあろう。なんぞと考えていたらこれもパアになった。

このままで行けば子供は嫁いで次々と戸籍から抜け、やがて私が死んで抜け、かみさんが死んで抜け、すると、誰もいなくなる。

今の法律で行くと、だれも居なくなった戸籍は八十年経つと閉鎖され抹消される。

そう。私という人間がこの世に生きていたという公式記録はぜんぶ喪失するのである。

私という人間は奥手というか実感として気づくのが遅いというか、要はのろまなのであろうとしか考えようがない。

学生時代も終わって所属している教室で副手をつとめる期間も済んだ頃、他の財団に先生の行っておられた席があって、そこに研究室を貰って、先生の仕事と財団の仕事とをやっていた折の夏、その日は先生方、研究室の名義人方の集まられた日で、仕事の話が済んで、雑談をしていたら、

「そうだ君に話があったんだが、君、家を継がなくていいと言っていたっけね。どうかね僕の養子にならないかね」

「はあ。……。私なんかでなくても。先輩のHさんもいますし……」

「だれがいても、かみさんも君がいいって言うし。君がいいんだよ。僕等は」

「……ちょっとだけ考えさせて下さい」

先生はそれから二週間も経たないうちに亡くなってしまった。

いまにして思えば、先生の方が余程早手回しに戸籍のことを考えておられた、“えらい”と思う。私も五十代からもっと身を入れて考えていたらなんとかなったかも知れない。なんぞと思う。

次は親父である、七十過ぎてから妙に男子を欲しがった。その時はまだ何かそれは親父の気持ちで私とは別のことだと思っていた。

妹に婿を取らせて子供が出来てその子も皆女児であったので親父としては“関係周辺の声”に対して何処か不本意なところがあったものであろう。

自分が惚けかけてもなお男児のことを言っていた。

私としては、一応週刊誌の記事にあった人と連絡をとって男児出生のための注入液を購入実施したりしているので親父への義理は済んでいると、肩の荷は感じていない。

後はもう男女共同参画の方の攻めで、夫婦同姓が崩れて夫婦別姓となってくれて、ちょっと直ぐ到来するとは思えないけれど、夫婦別姓は勿論、親子別姓も兄弟別姓も奇異に感じられない完全個別戸籍時代の到来をひたすらに希っている。皇室はどうなるか全く見えないけど。


はんが ちんぜん

昭和8年生まれ

埼玉県和光市在住