祖母が教えてくれたこと〜老いるための五準備〜・・・・・・・・・・・・・・・・・・濱吉美穂



 その年初めて降る雪がキラキラと舞い降りたその日の午後、3年を過ごした老人ホームで、祖母が天に昇った。87歳だった。
 孫の私と、二人の娘に見守られながら、さほど苦しむ様子もなくスローモーションのように顎を2回大きく上に突き出した後、息を引き取った。

 祖母が入所していたその施設は、祖母や娘である母達が住んでいた奈良からは車で2時間ほどかかる所にあった。私が仕事の関係でその施設を知り、紹介した。劣悪な環境の病院から早く祖母を退院させたいと思っていた母と叔母は、すぐにその施設に足を運び、蓮根畑に囲まれたのどかさと、職員さんの都会とは違う雰囲気が気に入り、入所を決めた。
 
 祖母の容態急変の連絡を受けて、私が高速バスとタクシーを乗り継いで駆け付けた時、祖母はもう下顎呼吸をしていた。目は一点を見つめて開かれていたが、まだ何かを探しているような意思は感じられた。
 私は元々看護師をしていたので、祖母の命が長くて数時間、短ければ数十分という状況にまで来ているということはすぐに分かった。
「間に合ってよかった、おばあちゃん、○○ちゃんが来てくれたよ」と、母達が祖母に語りかける。母達は夜中に奈良からタクシーを飛ばして駆け付けていた。
「苦しいのかな? おばあちゃん、分かる?」さかんに二人が祖母に声をかけていた。
「おばあちゃん、雪が降っていたよ」と私は何故かそんなことを口にしながら祖母の手をとった。祖母は、私を見るでもなく、ただ一点を凝視しながら口を開けて顎を突き出すように呼吸をしていた。
 祖母の手を握りながら、床頭台に置いてある祖母の80歳のお祝い会で撮った写真に目を向けた。その日は家族親戚一同が集まって、奈良ではちょっと由緒ある料亭で御祝いをした。その集合写真を見ていると、祖母の笑顔がそれまでの笑顔と違っていたのに今更ながらだが、気がついた。
 
 周りを囲む皆の満面の笑顔とは違って、どこか困惑したような、心もとないような笑顔だった。思えばあのころから、祖母の認知症は進行していたのだと思う。
 祖母とは、小学校の頃からまさにスープの冷めない距離で暮らしていた。
 13年前に祖父が脳梗塞で亡くなってからは食事もよく一緒にした。私は、祖父母にとって初孫だったし、唯一の女の孫だったのでとても可愛がられた。いつも祖父母は私の全てを褒めて受け入れてくれた。
 祖母は、幼少期を台湾で過ごし、裕福な家庭で育った。お手伝いさんが何でもしてくれる環境で娘時代を過ごして、蝶よ花よという育てられ方をしていたらしい。だからなのか、祖母はいつまでも少女のようで、浮世離れしてフワフワした感じがした。祖母に何か質問をしても、「私には分からないねえ」と自分の意見を余り言わない人だった。

 ただ、祖父が10年前に自宅で脳梗塞で倒れてからの祖母は、違う面を私達に見せるようになった。半身麻痺になった大きな体の祖父の介護は、すでに老身の祖母にはかなりきつかったのだろう。祖父が倒れるまでの祖母は、祖父の庇護の下で生活のほとんど全ての決定事項を祖父に委ねていた。それが一転して、法律上の手続きや銀行とのやり取りなどをしなければならなくなり、さらに料理が苦手にも関わらず、自分のもの以外に半身麻痺の祖父が食べられるような食事まで準備しなければならなくなった。祖母には、つらい日々だったのだろう。
 だから、祖父を看取ってからの祖母は、フワフワしていた感じが薄れ、気性が強くなり、険しい表情を見せることも多くなった。
 その頃の私はというと、自分の世界が楽しくなった頃だったから、あまり家で過ごす時間もなくなり、祖母と会う事も少なくなった。だから、時に週末に自宅で食事を共にした祖母の様子がなんとなく違っていても、あまり気に留めることもなかった。
 そんな状況が何年か続いたある日、祖母の変化がやはりただものでないことに直視せざるを得なくなったのは、母親から祖母の様子を相談された時からであった。
 祖母は元々近所付き合いもなく、友人と出かけることもほとんどなかったが、ますます閉じこもりがちになる祖母を、母達はなんとか外に連れ出そうと努力していた。そんな母達に対し、時に「あんたたちは楽しそうでいいね!」と強い口調ではき捨てるような言葉を投げかけるようになっていた。
 外出もしないので足腰は弱ってふらつくようになり、料理の嫌いな祖母は食事も不規則になりとても痩せていった。
 何か手を打たなければな……と考え出した頃、自宅で転倒し骨折して緊急入院となった。
 もともと認知機能が低下しつつあった祖母は、その入院が決定打となってせん妄が出現し、そのまま認知症が増強していった。
 入院して、寝たきりになった祖母の手足は見る見るうちに拘縮して、固まっていった。さらに祖母の思考はますます現実から遠く離れていき、状況判断もできず、悪循環は続き、祖母の心身の状態は悪化する一方だった。当時、臨床の看護師から在宅介護関係の仕事に就いていた私は、祖母の置かれているような魔のスパイラルに陥る人達を嫌というほどにたくさん見てきていた。私はそんな人達をなんとかそのスパイラルから救い出したい、という思いでその仕事に就いていたはずなのに、祖母の状態に困惑する母達の様子を、なぜか私は冷静に見ていた。
 私はもしかすると非情な人間なのか?と思う事もあった。でも、「もうこうなってしまってからでは遅いのだ」という気持ち、諦めのような思いがあったのかもしれない。

 祖母は息を引き取るまでの1カ月ほど、ほとんど口から物を食べることなく過ごした。誤嚥による肺炎で2度も入院し、その都度体力も低下した。奈良から週に1度施設に通っていた母達は、いつも医師や施設の職員さんから「胃ろうにしたら元気になるのに」、という言葉を投げかけられていた。祖母の事を思っての提案だということは十分理解できた。でも、それは祖母が望んでいることではないのではないか? その頃はもう祖母が意思決定できる状態ではなくなってしまっていたので、母や叔母はとても悩んでいた。
 だからこそ私に、母達は助けを求めていたと思う。
 でも、私はそこから少し逃げていた。「もうこうなってしまってからでは、遅いのだ」という気持ちがどこかにあったからかもしれない。どうしてもっとこうなる前に、自分は母達によりよい案を提案し、真剣に話し合おうとしなかったのか?
 他人のことは、色々と考えて骨を折ることができるのに、何故、自分の大切な家族、祖母のためにもっと心を砕くことをしなかったのか?
 いつも、自分に腹を立て、悔んでいたような気がする。
 もしかすると、私が施設を紹介するという安易な形ではなく、自宅で祖母を看取るということへの道しるべを示せていれば、祖母はこんなに遠い見知らぬ土地で、施設での生活などすることなく家族にいつも囲まれていることができたのかもしれない……
 
 自分のふがいなさを責めつつも、最終的には祖母を施設に入所させることとなった結果に対し、どこか母達への腹立たしさも抱えていたような気がする。
 だからいつも、せめて最期だけは家のような雰囲気で祖母を看取ってあげたい。それだけが、とても愛してもらった孫である私ができることであると思っていた。

 そして、その時は静かにやってきた。
 祖母はちゃんと私の思いを汲んでくれていた。
 忙しく仕事をしている私が、ちゃんと祖母のもとに駆け付けられるように、「その時」を土曜日に選んでくれた。
 私が到着した時、祖母の小さな顔は大きな酸素マスクに覆われていた。すでに下顎呼吸をしていたので、私は母と叔母に、「自宅だったら、酸素はないよね」ということを伝え、二人もその意図を理解した。私は母達にもう一度確認をし、祖母の口元から緑色の酸素マスクを外した。
 それからしばらく、私たち3人は、明るい日差しが入る祖母の部屋で、祖母の体をさすったり、時に涙を流したり、時には笑いながら過ごした。施設の職員さんたちも、必要最低限の訪室に控えてくれて、静かで、本当にまるで自宅にいるような穏やかな時間だった。

 静かに祖母が旅立ち、体を皆で清めお化粧を施した後、施設の職員さんが「何も朝から食べていないでしょう。お腹がすかれていると思って、食事を準備しています。こんな時ですが。まずは食べられたら?」と声をかけて下さった。
 私と母、叔母の3人は、思いもかけない申し入れにちょっと驚いたが、すぐにお互いの顔を見合わせながら、「じゃあ、いただきましょうか!」とそろって笑顔で答えた。
 3人とも、綺麗に完食した。

 祖母の葬儀は、身内だけの家族葬で、笑いが絶えない和やかなものとなった。
 小さな姪達が、花いっぱいに囲まれて眠る祖母を見ながら、「おばあちゃん、綺麗だね。あれ? 死んじゃったの?」と可愛い声で問いかけるその様は愛くるしく、場を和ませていた。祖母は、こんなに可愛いひ孫にも恵まれて、シアワセだったのだなあと、思った。
 祖母は、決して今で言う「サクセスフルエイジング」というものを実現できた人ではなかったかもしれない。最後まで老いによって様々な機能を奪われて大好きな甘いものも食べられなくなってしまっていた。でも、こんなに暖かい家族に恵まれて、その全員が祖母の旅立ちを笑顔で見送るために集合した。そんな家族を創ったということは、とても凄いことだなと、つくづく思った。
 私は、祖母の遺影を眺めながら、祖母が私達に遺してくれたものは何だったか、考えてみた。祖母が身を持って示し、遺してくれた生きるための極意、それは必ず訪れる「老い」を見据え、考えながら生きていくことだと思った。

「しあわせに老いるための五準備」
1つ、しあわせに老いるための「しなやかな心と体」の準備
1つ、家族や友人、隣人と「お互い様にお世話になる」準備
1つ、自分を支える「趣味や役割」の準備
1つ、「ほどほどのお金」の準備
1つ、「いき 方」の意思表明の準備

 おばあちゃん、ありがとう。

(2010)