大きな発見・・・・・・・・・・・・・・・・・・浜田 博文

 


久しぶりに同窓会に出かける。するといろんな顔に出会う。不思議な事に、顔によって話題も変わってくる。
学生時代の面影をそっくり残した顔に出会うと、自分もつい学生のような錯覚に落ちて昔話が出てくる。頭髪が薄くなり皺の増えた顔の場合、これが最も多いが、年相応の仕事や家族の話になる。白髪一杯になった顔や頭は、シルバー世代に入ったという気持を抱かせる。ツルツルになった顔立ちだと、目がそちらにゆかないよう努力するが、意識とは反対につい目がゆき口が出てしまう。一番困るのは、思い出せない顔である。一応当たり障りのない話で学生時代を聞き出そうとするが、最後まで冷や汗物である。

男は四十歳になったら自分の顔に責任を持て、という。そして孔子は、五十にして天命を知ると言った。えらい事を言ってくれたと思う。還暦が過ぎたのに、とてもそんな心境にはなれない。むしろ、年を重ねるにつれて愚痴が多くなってくるように思う。

仕事のあいまに、同僚とコーを飲みながら愚痴を言い合うのは他愛ない。居酒屋などで同じ仲間や友人と愚痴るのも気楽なものだ。少々ハメを外しても「酔っててね」と頭をかけば、何とか勘弁してもらえそうな日本社会である。

マスコミに登場する話題を講釈つきで愚痴るのも気楽だけど、愚痴にとどまらず、議論彷彿としてくるとやっかいである。

先日、若い教諭が未婚の母となったが、子供の教育上から不都合という理由で転勤させられたと新聞に大きく取り上げられていた。その後、ある女性評論家が「非人間的措置」と憤慨した意見を載せた。私も同感だなと思っていたが、すぐ読者から「教師は道徳的・模範的であるべき」と強い反論が寄せられた。同じ人間なのに道徳的・模範的を強要される教諭という仕事はたいへんだ。

また、先日のテレビで路上アンケートを放映していた。脳死と心臓移植の是非を問う番組であった。ある若い女性は「自分の身内が、もし脳死状態になっても、体の温もりが残っているのに脳死判定を行うのは同意できないし、心臓移植には反対である」と答えていた。ところが、「では、もし自分の子供が病気になり、心臓移植が必要になったらどうですか」と聞かれると、返事に窮していた。

やっぱり人間は、考え方も生き方も千差万別である。何を言っても反論は必至であり、また自分の事と他人の事とは本音のところで異なってくる。本音と建て前は違うが、違うからといって責められない。本音も立て前もすべて人の心のなせるところである。

ところが、この心ほど複雑・巧妙な働きを持つものはない。そして、その複雑・巧妙な心の働きには計り知れない広がりもある。

先日、人間臭い事に少々疲れて、自然が豊富な種子島に、鹿児島から高速の水中翼船で出かけてみた。種子島を選んだのは、隣の屋久島が世界遺産となりマスコミで大きく取り上げられ観光客で賑わっているので、その逆の種子島に足が向いただけのことであった。便利なもので一眠りもしない内に着いた。レンタカーを借りて島を巡っている内に、島の端にある宇宙センター展示館に着いた。興味半分で入って、館内を一巡すると宇宙の事が良く分って楽しかった。特に、飛び立つロケットから見える風景が、次々とパノラマ風に拡大して変わってゆく展示には驚いた。画面は小さな種子島から鹿児島県全体に変わり、あっというまに九州→日本列島→太平洋と次々に広がってゆき、丸い地球となった。その地球もどんどん小さくなったかと思ったら、木星、金星などが現われ、次には太陽を中心とした太陽系から銀河に変わった。まもなく銀河はアンドロメダ座、カシオペヤ座など多くの星座と同じように、宇宙空間をゆっくり漂い始めたのである。こうなるともう神秘の世界としか言いようがない。

このように果てしなく広がる宇宙を実感すれば、逆にその果てしなく広がる宇宙を再現した人間の脳の限りない働きに改めて驚嘆させられる。大型コンピューターをいくら集めても、わずか千五百グラム程度の人間の脳の複雑・巧妙さにはかなわない。何千年と続く古今東西の波乱に富んだ歴史も、きらめく文化・芸術も、そしてあらゆる産業と文明の発展も、その脳のなせるところである。宇宙と脳は大きさこそ比べようもないが、それぞれの広がりは限りなく果てしない。

同じ大学の同僚に天文学者がいる。彼の論文を見て驚いた事があった。数式に∫(積分)記号が五つも六つも横に連なっていたのである。文字通り天文学的数字に、大学受験の頃∫が一つだけでも青息吐息だった私の眼は、一瞬点になった。

彼によれば、理論的には、地球の引力に打ち勝つスピードでピストルを前方へ撃てば、その弾丸は地球を一周してきて撃った人の後頭部に当ると言う。よく考えれば高校の物理程度の知識なのに、天文学者が言うとほぉと感心してしまう。

さらに宇宙は限りなく膨張しつつあるのだそうだ。するとこの地球はどうなるのか。地球滅亡が頭をよぎった。確かにそういう時期が来るのは間違いないが、それは四十〜五十億年先の事だと言う。現代人にとっては現実的でないはるか先の話だそうである。それよりも、彼は人間が自ら作り出した核兵器の方が、よっぽど深刻な問題だと言う。

アメリカ、ロシアという大国に限らず、核は地球の至る所にあり、新しく持とうとする国すらある。なす術の無い我々市民はやりきれない思いがする。地球が、「夏草」どころか、荒涼たる死の灰に被われて、「つわもの(為政者)どもが夢の跡」とならない事を祈るばかりである。これだけはやり直しがきかないから。

「地球滅亡近しとなったらどうする」。私が聞くと、

「その時は死の灰を避けるため地球を脱出するしかない」と言う。

彼が今、天文学をやっているのは、案外地球脱出を狙っているのかもしれない。その時はぜひ便乗させてもらうよ、と言って二人で笑った。

誰でも自分の考えは言いたいし、主張したい。またどんな事にも、異論・反論はある。どんな事でも、批判・分析する事は簡単で、そういう時の意見は一見正論のごとく聞こえ易い。だが良く聞いていると正論に聞こえる意見にも、我欲が潜んでいることが多い。

いろいろと、とりとめもなく思いを巡らしていたら、大きな発見があった。

たしかに、人は誰でも自分の事は言いたいし主張したいが、逆にじっくり聞いてくれる人は少ない。人の言う事を、良く聞き、受けとめる事は、これはなかなかむずかしい。だから、何事も、じっと聞いてくれる人の存在こそ大きく、真に大切なのではないか。

じっと聞き、受けとめ、見守る。それは時と場合により、父であり、母であり、夫、妻、子供、恩師、恋人、友人、先輩、同僚であり――そして見知らぬ人の時もある。

例えば、年老いた人の傍らで、黙って愚痴を聞く人。口数は少ないが、病の床の人の気持を、じっくり聞く人。肉親を失った人のそばに、静かに座っていてくれる人。

人は、一人で生まれてきて、一人で死んでゆく。寂しいけれど厳然たる運命で、誰も肩代わりできない。人生行路の中で苦難、不遇、悲嘆にある時、傍らにいてじっと見守るだけである。ただその見守る人の心には、慈悲がある。見守ってくれる人は、一握りの縁ある人にすぎないが、そんな人の存在があるから、人は生きてゆけるのだと思う。またそんな人の存在は、人生の味を倍増してくれる。