天野美和



捨てたもんじゃないね


四年ぶりの外出だ。自由に外へ行かれなくなった私が一人で東京へ行く。少々不安だったし、後の人がチョンと押しただけで転んでしまう頼りない足なのだ。何人かに同行を求めたが、体裁良く振られてしまった。だが行くぞ、晴れの舞台だ。
「ホームから落ちなきゃ大丈夫だよ」
と、のたもう人も居る。無事帰ってやる! そんな決心で家を出たのが十時だ。駅で昼食を済ませても始まるのは三時だから間に合う。しかしアクシデント発生。手帳を使って割引きで行きたい私は窓口へ行った。イヤ並んだ。延々と並ぶ事二十分。つくづく思ってしまった。“日本人は辛抱強い”と。黙ってじっと並んでいる。文句を言うどころか嫌な顔もせず、只並んでいる。マ、仕方がないのだが。
ホームに落ちる事もなく新幹線に乗り込んだ。春休みのせいか混んでいる。やっと座れた隅っこの場所には年配の女性が居た。何の話がキッカケだったのか、自分の哀しみを話し始めた。一方的に聞いていた私は
「焦らない事です。心の中の事は誰にも見えないし、解って貰えない辛さが有りますよね。休みましょう、自分を責めないで」
と、誰かの受け売りを尤もらしく言っていた。もしかして自分に言っていたのかも知れない。御婦人は降りる時
「ありがとうございました。とても勇気付けられました」
と何度も礼を言っていた。本当は誰もがコミュニケーションを求めているのかも知れない。殺伐とした世の中というが、誰も人を求め合っているのかもしれない。
その人が下車すると入れ替わりに若い母親が横に座った。一歳近いかと思われる子は眠っている。私は話のキッカケに携帯電話の操作について聞いてみた。
「携帯に一斉にメッセージが来る事って有るんですか」
「えっ、どこからですか?」
「携帯の会社からです」
彼女はちらっと私を見ると
「ちょっといいですか」
と私の手から携帯電話を取ると器用に指を動かし操作し始めた。
「ほっておくと何度でも来ますよ」
そう言って片手で操作しながら、次々と画面を変えていく。
「暗証番号、判ります?」
その時私は言葉を飲み込んでしまった。(暗証番号なんて教えていいのだろうか)少し考えた後
「番号って四桁ですよね、契約書に書いてあると思うけど」
私は何故構えているのだろう。こんなに可愛くて若いお母さん、しかも二度と会わないかもしれない人を警戒している。
「暗証番号が判らないと、ここから進めません」
彼女は私に携帯電話を渡した。それからは、たわいのない話をしながら東京まで一緒だったが、心のどこかに引っかかっていた。暗証番号は知っていたのだから。
目的の行事を済ませると夕方だった。カラスが群れになって帰る頃だが、勿論東京ではそんな光景は見えない。急いで帰らないと帰宅は夜中になると少々焦りながら自販機の前に立ったが、手帳を自販機に見せても反応しないに違いない。駅員の「みどりの窓口」というぶっきらぼうな声に押され、又並んだ。往復を買っておけば良かったと思うが、仕方なく並んだ。今度は二十五分立っていた。つかまる所もなく杖に全身を預け、“身体の不自由な者は外出するなかれ”と言われているようで、(可哀想になあお前は)と別の私が慰めていたのだった。
ホームに出ると新幹線は止っていて、整備や清掃をしているようだった。随分混んでいるなと思いながらボーと立っていたが、ボーではダメなようだ。良く見ると行列がクネクネと並んでいる。どこへ行っても行列なんだなあ。私一人がうんざりしている様子で、どのお方もそれなりに超越した顔をしておられる。
「日本人は辛抱強い。日本人気質はまだ有る」
とつぶやいた。十分程してドアが開くと、なだれる事もなく、順番に乗車した。昔、まだ汽車だった頃、窓から荷物をほうり投げ席取りをする人が居たが、この光景は辛抱強いのではなく“どうでもいい”なのか、それとも、日本人の奥床しさなのか行列はシズシズと進み、通路まで人で埋め尽された。同席になったのは男性で、週末だけ家へ帰るそうな。あと二年と言っていた。見渡すと殆どが男性だ。立っている人も座っている人も男性が多く、女性はチラホラしか居ない。同席の男性に聞いてしまった。
「女性専用車輌は聞いた事がありますけど、男性専用もあるのですか」
聞かれた人は多分可笑しかったと思うが、笑いもせず、煙草に火を付けながら
「ここは喫煙車なんですよ。だから男が多いのだと思いますよ」
なるほどと頷きながら、朝からずっと我慢していた私は煙草を吸える場所に来たのに、持っていない事に苦笑いをするしかない。東京駅は喫煙所どころか、ゴミ箱さえ無かった。同席の男性に東京駅にゴミ箱が無い理由をたずねると、テロ対策と言っていた。ただひたすらに列を作っている日本人とテロが結び付かないと思う私が変かもしれない。だが、ここに居る人達がテロに対する危機感など持っているとは思えない。全くの無防備に私には見えた。
品川に来ると混雑を極めた。まるで通勤列車状態だ。私が立ったまま帰る事になったら地獄だ。両足には補装具を着けているが、長いズボンで見えない。杖をついているが身近な人でさえ忘れてしまう元気な顔をしている。押し合いへし合いの中では顔しか見えない。多分席を譲る人は居ないだろう。特急券は買ったのに。そんな思いで座れた事を感謝していた。
静岡に着くと立っている人は殆ど居なくなった。同席の人も会釈をして降りて行った。入れ替わりに若い女性が座った。ニコやかに頭を下げ腰掛ける姿は爽やかだ。テーブルをセットすると、ビールを出し煙草に火を付けた。
「ここは煙草を吸えるんですね。ずっと吸う所が無くて朝の十時から吸ってないのですよ、売っている所もなくて」
と話し掛けると
「えっ、十時からですか、どうぞ吸って下さい。悪いかなあと思いながら吸っていたんですよ」
と煙草を差し出した。喫煙車なのだから悪くはない。若い女性は実家に帰るところだという。
「ずっと立っていたらどうしようと思っていたんですよ。ビールも買って来たのに」
と、まだ幼さの残る女性がおっさんのような事を言う。そのギャップが新鮮だった。たった一駅の間だったが、若い女性とのおしゃべりは楽しかった。何故か惜しみながら懐かしい駅に降りた。たった十時間程離れていたこの街が、お帰りと言っているようだった。肩で深く息を吸うと、自分が本来居るべき所に戻ったような安心感に包まれた。たった十時間で大勢の人と接触し、会話をした。不愉快な事は何も無かった。行事の会場でも、みなさん親切だったし、旅は道連れになった人も、まだまだ日本人気質であった。モラルは確かに低下したし、コミュニケーションも下手になった事は実感しているが、捨てたものではない。一人で杖を頼りに出掛けた東京は私に暖かな物を与えてくれた。人と人とのふれあいは、こちらでバリアを外せば自然に交流が生れるようだ。連なる行列も、見知らぬ同士の会話も、それ程日本人が変わったとは思えない。私は晴天に輝く星を見ながら、路線バスに乗り、一人ニヤニヤしながら一日の出来事を思い出していた。(2007)




リヤカーと少女


小学生の頃、クラスの中に母親が結核で別棟に寝ていて、祖母に育てられている男の子がいた。その子は学校でも家でも移るといわれ友達が一人もいなかった。学校では傍を通るだけで女子でさえも、フッフッと息を吹きかけ衣類を払ったりしていた。結核は家族の人格さえも否定される怖い病気なのだと思っていた。その忌まわしい病気に私はかかってしまった。白衣の看護婦が迎えに来た時、人生が終わったかのような絶望の涙を流した。昭和三十四年の春紡績で働きながら定時制高校に通っていた私は体調を崩し、会社内の診療所に入院したが、二週間後には家に帰されてしまった。病気だとは思っても、あの嫌われる肺結核に侵されているとは決して思いたくなかった。しかし車は療養所に着いた。小高いところにある大きな病院だった。安静度二度と告げられ個室に入った。三日間は泣いていた。窓の外の畑の方向に汽車が通っていた。その汽車に乗り、どこでも良いから行きたかった。

まだ十六歳の私は療養所の中で一番年少だ。思い詰め病室から出ない私に箱型のラジオを持って来てくれた人がいた。自分は大部屋だから誰かのを聴くからいいと言う。卵をもらったからと宝物のように私の手に乗せてくれた人がいた。
「ごはんいかけて食べろ」
と言う。

一ヶ月もすると病棟の人と馴染み一緒に散歩に出かけられるようになった。病院の坂を下ると川があった。広い土手には月見草が沢山あった。ポンと音を立てて咲く瞬間は感動だ。
「明日はこれが咲くね」
と、次の日の楽しみを残して帰った。川の傍に駄菓子屋があり、新聞紙で作った袋の中にビスケットや飴を入れて貰い大事に大事に食べた。しかし何度も行っているうちに店の人に来ないでくれと断られてしまった。
「病院の人が来ると客が嫌がって来なくなるんだよ。悪いけど療養所の人は来ないで欲しいんだよ」
すっかり忘れていたが、差別される病気なんだと再確認をし哀しかった。

秋になると雨の日が多くなった。その夜は眠れない程の風雨に私は女性の大部屋へ行った。雨戸のない窓ガラスはガタガタと鳴り、患者達は全員起きている。窓ガラスが音を立てて割れた。
「そっち側の窓を開けろ、天井が抜けるぞ」
誰かが叫んだ。風雨は容赦なく病室に入って来る。患者達は動けない人をベッドごと廊下に運んだ。廊下で肩を寄せ合って台風の行き過ぎるのを待った。台風は「伊勢湾台風」と名付けられ、故郷の母から家は倒壊し公民館に住んでいると手紙が来た。

秋が深まると、あのベッドごと廊下に運ばれた男の人の部屋が慌しくなり、朝になると亡くなった事が伝えられた。私の父親ぐらいの年齢の人だったが、迎えに来たのは私と同じくらいの十六、七歳の少女と知的障害があるかと思われる兄の二人だった。病棟に重い空気が流れた。病棟は二階だ。患者達は窓から外を見ている。見送るには余りにも哀しい光景を沈黙のまま見ていた。リヤカーに布団を敷き、動かない父親を寝かせ少女はリヤカーを引き始めた。兄らしい人は後からついて行く。少女はどこまでリヤカーを引いて行くのだろう。足を止めて振り向き、二階の窓を見上げると頭を下げ又リヤカーを引いて坂を下って行った。私達は見えなくなるまで見送った。私と同じくらいの少女の後ろ姿が脳裏から離れない。自分が病気になり落ち込み、恨み、絶望していた事が恥ずかしいと心から思った。葬儀はどうするのだろう。お金はあるのだろうかと心配や気掛りは増すばかりだった。

あれから半世紀が過ぎた。私も色々あった。死んでしまいたいと思った事もあった。両親と夫を看取った。夫は私がまだ二十代のうちに逝ってしまった。二人の子供を育て自分は十三回も手術し身体障害者になった。しかし何かあるたびにあのリヤカーの少女を思い出す。あれからどうしただろう。障害のある兄とどんな人生を送っただろうか。元気でいれば私と同じ六十代になっているだろう。今は当時の辛さを取り戻せるほどの幸せになっていて欲しいと思う。私が療養所を出て家に帰った後、母が肺癌で呆気なく亡くなった。その時母はリヤカーに寝かされ、父が引き私が押した。その時あの少女の哀しみを実感した。私には父がいた。だが少女は父親の寝ているリヤカーを引いていったのだ。あの頃では想像も出来ない文明国になり、今やリヤカーで運ぶ人はいない。だが私はあの情景を忘れることはできない。思い浮かぶのは十六、七の少女の姿だが、六十代になり幸せでいて欲しいと思っている。結核は恐ろしい病気ではなくなったが絶滅したわけではない。痛くない病気は怖い。一年足らずの療養生活だったが、人間の哀しみをあの時覚えた気がする。自分の哀しみ以上に相手の哀しみをいつも感じ、それを理解したいと思っている。(2008)



別れ


静岡に雪が降るなんて余りないことだ。肩に乗るとふわっと消えてしまう軟らかな雪が泣いているように降っていた。「静岡刑務所」の前で、課長は静かに私の背中を押した。この日が来ることは知っていたが、結婚して二十四日目とは夫も知らないことだった。仕事中に掛って来た電話はぶっきらぼうに、
「今から入って貰います。奥さんも来て下さい」
 と告げた。受話器を持ったまま涙を流し無言の私から、課長が受話器をひったくった。事情がわかった課長は、
「車に乗れ」
 と、事務所から飛び出した。刑務所に着くと、雪が降っていた。二月二十八日の静岡は、その日がわかっていたように雪が降っていた。夫は先に来ていた。上司と一緒だ。交通事故とはいえ刑務所なのだ。夫の何もかもが外された。ベルト、時計、上着もズボンも脱いだ。青い上下の服に着替えると、手錠をされ腰縄で繋がれた。夫は私の前に歩み寄り、
「泣くな、元気でな」
 短く言って、思い切ったように歩き出した。何度も何度も振り返り、房の方へ消えて行った。私は粉雪を受けながら立ち尽くしていた。夫の上司が静岡駅まで送ってくれた。「困ったことがあったらいつでも……」
そんな言葉も、後姿もぼんやりしていた。私は窓口で、
「静岡まで」
と言うと、
「売り切れました」
という答えが返ってきた。
「そうですか」と答え入場券で清水まで帰った。改札を出る時は通勤定期を見せたのを覚えている。夫の事故を私は知らない。知り合う前の出来事で、禁固五ヶ月の刑は聞かされていたが実感はなかった。これからの長さに比べたら五ヶ月なんて点に過ぎないと思った。
 自分は強い女だと思っていたが、そうではなかった。一人の食事は虚しくて、一人分の食事など作れなくて、仕事から帰っても夕食の支度さえできなくなった。夫は何を食べているのだろう。“臭い飯”なんだろうか。自分は白いご飯を食べていいのだろうか。日々の営みの全てに「夫は」と考え、行動に抑制がかかった。日記のように手紙を送った。夫からは月二回と決まっている。刑務所では外へ手紙を出せるのは月に二回しかできないのだ。
 初めての手紙には仕事を近くに変えなさいと、そればかり綴られていた。夜道が危ないというのが理由だった。二十一歳の新妻を、ただ心配することしかできなかったのだろう。私は職場を変えた。歩いて通えるドライヴインの食券売場で働き始めた。
 だが五ヶ月は長かった。四畳半一間は冷たくて、寂しくて、残業を理由に職場に居る時間が長くなった。夫からの手紙は「残業は止めなさい、夜勤は止めなさい」で埋め尽くされた。五ヶ月は随分長く感じた。別れた日は雪が降っていたのに、桜が咲き、雨の季節も終り夏になった。夫の最後の手紙は、坊主頭が恥ずかしいから帽子を買って来てくれとあった。あの時渡されたベルトや夏服を持って迎えに行った。帽子は結局買わずじまいだった。夫の髪は少しのび、ツンツンしていた。出所が近づくと刈らないのだと久しぶりの食卓で話してくれた。
 夫は饒舌に話し続けた。毎日手紙が来るので冷やかされたこと。新しい人が入るまで全員の布団を敷いたこと。入所した日は独房で、渡された歯みがきの袋に書かれていることを何度も読み、成分を覚えてしまったこと。物干ハンガーを作っていたことなどを楽しそうに話した。幸せだった。この幸せはずっと続くはずだった。一年目に長男が生まれた。住居も広い所へと何度も移転した。
 その間に夫の会社は倒産し、質屋通いを経験したり、子供を夫に託し私が夜の街で働いたこともあった。私達はいつも一生懸命だった。再就職ができ、県営住宅に入居した頃二男が生まれた。夫と私には夢があった。いつか居酒屋を開きたい。二人で一緒に店を持ちたいと思っていた。その夢は意外に早く実現した。二男が片言を話す頃、私は女将になった。夫は外で働く。買出しから仕込み、帳簿付けまで私一人でこなす。子育てをしながら夢中で働いた。店は繁盛し、時々夫も店で接客してくれた。この幸せはずっと続くと決めていた。
店の電話が突然鳴り、あの雪の降る朝のように、前ぶれもなく、夫は帰って来なかった。仕事中に脳出血で倒れ、一度も目覚めないまま逝ってしまった。
「パパ、いちごアイスね」
「よし、買って来るぞ」
 それが夫の最後の言葉だ。もう何ヶ月待っても帰って来ないのだ。日記のように手紙を書いても宛先はない。夫はいつでも突然いなくなる。待っていれば帰って来る。そんな期待は三ヶ月以上も続いた。車がバックする時のピーピーと鳴る音を聞くと、
「帰って来た」
 と腰を浮かせた。それは転居しても続く夫の帰宅音に思えた。子供の存在さえ忘れていたが、二人の子供はどんなに辛かっただろうか。死が何であるか理解できなくても、何か大変なことが起きたことは感じ取っていたはずだ。
 その子もいまは四十三歳と四十歳になった。夫とは七年間一緒だったが、その五倍以上も時は流れた。二十八歳だった私は六十五歳になった。一人で静かな夜を過ごしながら三十七年前を思い出す。子供の寝顔を見ながら酌を交わす。
「ねぇ貴方、もし私が先に死んだら再婚する?」
 夫の愛を確かめるように聞く私に、
「しないよ。お前こそ若いんだから再婚するだろうな」
 夫は私より十歳近く年上だ。妻が若いことが自慢であり、心配だったようだ。
「カウンターの外に出なくていいんだよ」
 といつも言っていた。
「子供が大きくなったら、また二人っきりになるんだなぁ」
 休日の夜はこんな会話をしながら酌を交わした。再婚なんかしなかった。二人っきりにもならなかった。余りにも早い別れ。余りにも早い死。掲げた遺影は三十七歳のまま私を見ている。一人の夜は静かで冷たい。(逢いに行こうかな、寂しいもの)とつぶやく。未亡人とは、まだ死なずにいる人の意味らしい。随分長く死なずにいる。先日孫から手紙を貰った。
「おばあちゃん、いつまでも元気でいてね、長生きしてね」
 それだけの手紙を大切に財布の中に畳んでしまってある。長生きしなければ。別れは誰であっても辛い。まだそちらには行かない。今まで頑張って生きて来たのだから、これからだって生きられる。精いっぱい生きて突然貴方の所へ行きたい。貴方は誰かわからないと思うかもしれないけど。

 夫の不注意で命を奪われた人や、ご遺族の哀しみや辛さ、憎しみに比べたら私の哀しみなど……。幸せなぬくぬくした家庭を持ってはいけなかったのだ。私の愛する人が、誰かの愛する人の命を奪ってしまったのだから。そんなふうに思うようになった。(2009)





天野美和(あまの・みわ)

横浜で生まれ、2歳の時静岡県掛川市に疎開。十五歳まで過す。二十一歳で結婚し二児に恵まれるが、二十八歳で夫と死別。保育士や、調理師をして育てるが、その間に脊髄の病気になり身体障害者となる。六十四歳で障害者として採用され現在働きながら一人暮らしをしている。