風花のなかで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・秋元宣籌



買物などでよく通る道がある。日高山脈を西に間近くのぞみ、周囲は住宅地で、小公園の芝生や木々の緑が、目を和ませてくれる。
 その道でいつからか、ひとりの女性を見かけるようになった。中肉中背で、飴色の杖をついている。足が少し悪い。齢の頃はよくわからないが、中年の後半といったところだろうか。私よりはかなり若く見えた。
 いわゆる美人型ではないが、優しい面持ちで、着ている物の趣味もいい。私はその道を通るたびに、今日は逢うかな? などと思うようになったが、声をかけるのは憚られた。しかしやがて、その機会はやってきた。
 晩春のある晴れた日のことだ。私はやや遠い後ろから、女性の声で呼びかけられた。
「もしもしィ……何か落ちましたよォ……」
 振り返ると、二○メートルほどのところを、例の彼女が歩いてくる。私の上着のポケットから葉書が落ちたのだ。東京の友人に出すつもりで持ってきた、無沙汰お詫びのものである。それを拾いながら私は、近づいてきた彼女に、つい駄洒落を言った。
「どうも有難う。重大秘密を誰かに読まれちゃうところでした」
 すると彼女も切り返してきた。
「え? そんな重大秘密を、葉書なんかに書くんですか。不用意だわ」
「いえいえ、ジョークですよ。それにしても、あなた、お顔に似合わずなかなかやりますね」
「あら、私の顔って、何か変わってます?」
「いや別に、そうじゃありませんけど……」
 ここで彼女は、急にしおらしくなり、
「ごめんなさい。つい口が過ぎました」
 と、頭を下げる。私は問いかけた。
「よくお見かけしますけれど、今日はどちらへ? 今、あなたのことは、全然、気が付きませんでした」
 すると微笑しながら、
「あの角をね、曲がったら、あなたの背中が見えましたの」
 指差す彼女は、ふと少女の風情になった。
 これがきっかけで、私たちは逢うたびに声をかけあい、急がない時には、ちょっとした立ち話もするようになった。しかし互いに名前も住所も明かさない。いわば行き当たりばったりの奇妙な関係だが、これはこれでいいと私は思い、彼女も同じらしかった。踏み込んで、ややこしくなるのは避けたい。齢を重ねた者同士の知恵かもしれなかった。
 そしてその年の秋の午後、私は意外なことを聞かされた。
「今日お逢いできて、よかったわ」
 彼女は、小さなため息をもらしてから、
「あたし、ここを通るたびに、親しくしていただきましたが、ひょっとすると、今日が最後になるかもしれません」
 私はびっくりして、
「え? 突然、どういうことですか」
 その話を要約すると、こんなふうになる。
 彼女は十年前に、ある事故で左の大腿骨を折った。すぐに手術して治ったが、その際、骨の継ぎ目に短い人工骨を使った。その有効期間は五年で、期限が来たら再手術の必要があると言われ、それも無事に終った。今度は三回目の手術をすることになったが、加齢に随って手術は難しくなり、失敗すれば生涯、車椅子の生活になる。手術は前回と同じ、函館に近い専門病院で受ける。上手くいけば、十二月の半ばごろ帰ってこられる。
 私はこのとき初めて、彼女が、未婚の六十歳であることと、五つ違いの従弟のほかには縁戚のない、独り暮らしであることを知った。
 私も似た境遇である。江戸中期の林子平は六無斎と名乗り、一首を残しているが、私は、
「親は無し妻無し子無し学は無し金も地盤も地位名誉無し」
 の八無斎である。彼女の事情を知って、私は身につまされた。出来ることがあればしてあげたいが、これは思うだけにすぎない。ただ、手術の成功を祈るしかなかった。
 私は大東亜戦末期、勤労動員学徒で東京にいた。同時に、勤務地の池袋を管轄する警察署の臨時補助員でもあった。十六歳だった。ある日の夜勤時に空爆された際、私は、松葉杖の女性を見殺しにした。その人は小さな鞄を肩に掛け、炎の向こうに立ち竦んでいた。だが私は、義を見てせざる者になって逃げた。助ける余裕がなかった。自分が逃げるだけで精一杯だと思ったからだが、臨時補助員とは言え、仮にも警察の側に立つ者ならば、身の危険をも顧みず、助けなければならないはずなのに、私は逃げてしまったのだった。このことは後々まで私を責めた。
 軍人敕諭にも書かれていた。
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ。その操を破りて不覺をとり、汚名を受くる勿れ」
 時代遅れのことをと嗤う人もあるだろうが、軍人敕諭は、当時の学生を律する鉄則であった。軍国教育はよくないかもしれないが、この「義は山嶽よりも重く」という一節は、いつの世にも通ることだろう。
 この苦い過去が今の彼女に重なる。またも同じような轍を踏むのか。何もしてあげられないもどかしさに、身悶えする思いだった。
 そして十二月半ばの午後のことである。
 よく晴れているが、風は冷たい。図書館からの帰りであった。前屈みに歩いている顔をふと上げると、遠くに人影が見えた。杖をつき、手を振っているではないか。
 あッ、あの人だ。手術が成功して帰ってきたのに違いない。よかった。おめでとうッ。
 折りしも、日高山脈から舞い寄せる風花のなかで、胸弾ませて涙ぐむ私は、思わず小走りになったのであった。

 あれから何年経ったろう。あの人と逢うことはなくなった。聞くところによると、遠くオランダの近代的施設に入ったという。詳しいことは何も判らない。



略歴
東京電機大学中退
元三菱重工勤務
小説新潮・小説現代ショートショートコンテスト入選
小説すばるコラム入選
北方ジャーナル小説新人賞次席
新風舎短編小説優秀賞