江戸風鈴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 足立剛



 還暦を過ぎたころから、新聞の人物コラムが楽しみで、二紙を購読している。

 昨今は、不安や憤りや悲哀を呼び起こされる大見出しばかりが目立つ。そんななかに、さほど名の通っていない人が消滅寸前の自然や文化を一途に守っているとか、子どものころ抱いた夢の実現に情熱を傾けてきた、などの囲み記事をみるとホッとして、愁眉を開くのである。

 人生が凝縮されたコラムは味わい深く、中には無性に合ってみたくなる人がいる。


 八月、アメリカから膿庖性の病をもつ一人の少女が来日した。生きた証に「江戸風鈴」を作ってみたい、少女の願いに応じたのは東京 都江戸川区の篠原風鈴本舗。夏場は炉の火を落として地方のイベントへ出払うのだが、快く少女を受け入れた。

 「江戸風鈴」の語感と、異国の小さな客のため日程を遣り繰りした江戸子職人の気風のよさに、清涼を感じた。

 簾を吊った濡縁に風鈴が奏でる夏の夜の音風景―。水を打った庭、瞬く蛍、揺蕩う蚊遣線香、遠くに漏れるラジオの音、祖父の咳、  父母の若い俤・・、私のなかの、斑消えの心象風景が、鮮やかに蘇ってくる。


 都営新宿線・瑞江の駅前交番で教えられたとおりに歩いて、十分ばかりの南篠崎町。紺地に白抜きの大暖簾が下がっていた。

『江戸風鈴 篠原風鈴本舗』

 竹笊に盛ったガラス片が、妻入りの店前で、秋の薄陽を浴びている。

 当主、篠原儀治、八十二歳。どこかで見たことがあると思ったら、石川さゆりと、キンチョウ蚊取り線香のCMに出ていた。

 江戸風鈴は、千二百度の坩堝の中で飴状に溶けた種ガラスを、共棹と呼ぶガラス管の先に巻いて取り出し、宙吹き加工する。三工程である。最初に小さな口球を吹く。次に口球の先に径八センチの本球を吹き瓢箪状に成型する。これを口玉職人が共棹から鋏で切り離してから、本球を包丁で切り取る。本球職人と口球職人とで素早く共棹を交換しながら作っていく。一時間に七十、一日五百、年間十万個を作る、と儀治はいう。

 いくつか径を測ってみた。全て八センチ、寸分の狂いもない。驚嘆しながら壁を仰いだら、『江戸川区無形文化財工芸技術保存者』の認定額が目についた。

「なあに、十三の時から吹いてきて、江戸風鈴を作っているのは、ここだけになっちまったしね」

事も無げにそういうと、儀治は江戸風鈴の歴史を語り始めた。

 風鈴と似たものに青銅製鐘型の風鐸があるが、宙吹きガラス製の風鈴は江戸中期から。問屋が職人に下請けで作らせる仕組みが整うと、安くて清涼感のある風鈴は、粋を好む江戸っ子の暮らしに定着して、「呼び声もなく買い手の数あるは音に知らるる風鈴の徳」と歌われるまでになる。

 説明を受けながら、ユメエ・アンベル『絵で見る幕末日本』の一節を思い浮かべた。

 ―天井から吊るした提灯に色ガラスの鈴をくっつけ、鈴の中の玉の代わりに長い金属製の棒を絹か木綿のリボンで下げ、ちょっとした風でも金属製の棒が鈴のガラスの壁をたたくようになっていて、その音は風琴の振動に似た不定なメロディを出している―

 江戸風鈴の特長は振動音。舌の当たる切り口がギザギザのままなので、叩く音と擦る音とが混じりあって、独特の振動音を奏でる。「色ガラス」とあるのは内側に絵付けしたガラスの表面が光って色が映えるのだが、風鈴は、江戸の下町を行くスイス人アンベルの目と耳を強く惹きつけたにちがいない。

 戦後、風鈴の音は人々の心を和ませたが、神武景気の昭和三十年、問屋制が終わった。「もはや戦後ではない」と経済白書が括る時代の風は、高級感の漂う水沢風鈴に吹いていたのである。四十三年、水沢風鈴が年商百五十万個、三億五千万円のブームに沸く一方で、江戸風鈴は奈落の底へ降る。

「食えりゃいいと腹据えて、夏は夜店や祭りに売りに出て、冬は焼き芋の車を引きながら、夜っぴて棹を吹いた。気がついたら、三十九年に九軒あった同業者が、四十九年には、みんな居なくなっていたな」

 三十九年といえば、東京オリンピックでテレビ視聴率が八五%を記録した年である。その二年前、受信契約は一千万を越えていた。音への関心が自然から電子音に向かう時代に、古い技法の江戸風鈴を守るなどとは蟷螂の斧というべきか。その時、法曹界を目指していた長男の裕が、司法試験に落ちたのを機に、家業を継ぐよ、といった。

 「老舗は、俺んちが一番新しい、といえなきゃ、技術の伝承だけでは生き残れない。探究心と発想の転換、時には遊び心も必要だと思って、いろいろやってきたよ」

 ミニ風鈴のイヤリングを作り特許を得るが売れない。ループタイを三十個試作して三五〇〇円の値札を付けた。売れないので冗談半分に、値札に一を書き加えて一三五〇〇円にしたら三日で完売した。ものの値打ちがわからない素人に阿漕なことをした、と自己嫌悪。以後風鈴の質を改善することに徹した。

音の響をよくしようと種ガラスに鉄粉を混ぜたら、輝度が冴えない。鉛を加えクリスタルにした。球の厚みや膨らみ加減を工夫し、塗料を高級顔料に替えた。かつて、三日持てばよいと謗られた江戸風鈴が、八〜九年は色褪せしないし、少々の衝撃では毀れぬまでになった。宙吹き加工、ギザギザの切り口、手描き絵付け、これだけは変えない。

「四十七年に京成デパートが『この道一筋展』を始めてね。八年後に『日本の伝統工芸展』と改まったが、これで弾みがついて、長いトンネルを抜け出たのさ」

高度成長期に逼迫し忘れられていた職人技が、過度の経済成長の歪である公害や経済成長の停滞、量産によらない良品を求める消費者意識、国際化の兆しなどで、ようやく見直されたのである。

 海外でアンテナショップが始まると、江戸風鈴も海を渡った。

 「オランダで、風を楽しむものだ、といったが売れなくてさ。それで、赤球は魔除けで、金魚の絵柄の風鈴は、風に吹かれていつまでも泳ぐから不老不死のお守りだ、といってやったんだ。そしたら、赤ばかり売れた。洒落っ気というものが伝わらないのさ」

 儀治は、室町末期のわが国に初めてビードロの製法を伝えた国に、四百年にわたって練り上げた日本のガラス工芸を伝えなおしたのだ! だが儀治は、そんな気負いの片鱗もみせず、頬を緩める。

経営のコツを訊いてみた。

「利子ってのは盆も正月もない。日曜日だって休んじゃくれないから、毎日、毎月の支払いを綺麗に、こざっぱり生きることだな」

儀治の楽しみの一つは、例年十月から十一月にかけて体験学習にやってくる、約三千人の児童、生徒たち。学校は関東を中心に東北から中部地方にまで広がる。受け入れのきっかけとなったのは、女性差別だと騒がれたハウス食品のCM『私作る人僕食べる人』。

「風鈴も『私作る人あなた使う人』だけでは能がないな、と考えてたら、区内の学校が、体験学習させたい、といってきた。引き受けたら、子供たちは、思い通りにできなくても、いい表情で、大事そうに持ち帰って行く。礼状や文集は、世界で一つしかないものを自分で作った喜びに溢れていてさ。

それで思ったんだ。いつかは毀れる風鈴だけに、暮らしの中で、夢とか思い出として、心の中に生きていればいい。子供たちがここで楽しんで、ちょっぴり優しい気持ちになって自分を大切に思ったり、風鈴を慈しんでくれたりするのなら、職人冥利に尽きるんじゃないかってね」

儀治は、小柴昌俊、緒方貞子、森繁久弥、山田五十鈴,日野原重明,鈴木俊一など存命十二人と並ぶ、名誉都民に登録された。

「後、十年の天命だ。江戸風鈴の行方を見定めるよ」

視線の先に、大学を卒えて口玉職人の修行を始めた孫娘、由香利の姿があった。


「これから関西までじゃ、大変でしょう。駅までお送りします」

由香利の言葉に甘えて、助手席に座った。

「最近は、風鈴の音がうるさいって、苦情が多いんですよ。でも、わたし、梢や葉っぱなんかと同じように、風鈴にも、優しい風を感じてほしいんです」

 私のなかに、響いているものがある。私は、風鈴になったようだ。  

 (敬称略)