「カンダハル」によるマフマルバフ監督のアフガニスタンへの傾斜は、さらにこの「アフガン・アルファベット」によって深まっている。マフマルバフ監督のドキュメンタリータッチの技法は、こうした難民や戦乱を描くとき、いっそう生彩を放つ。
このドキュメンタリー短編映画は、戦場や兵士や難民を捉えるのではなく、学校とそこで学ぶ子供たちを克明に追う。カメラが捉えるのはひたすら難民の教育現場と子供たちの姿だけである。しかしむしろそこに、彼らの人間の姿と、「タリバン」による文化破壊の歪み、その中で生きる人間の生の声がくっきりと浮かび上がってくる。マフマルバフならではのドキュメンタリー映画だ。
コーランを学ぶ子供たちに一人一人容赦なく質問が浴びせられる。「君たちが習っているそのコーランはだれが書いたの?」「神だ」「神はいるの?」「いるよ」「どこに?」とまどいを見せる子供の表情をカメラはむしろ人間の生身の姿をありありと描きだす。子供たちは問い詰められると、結局は答えられない。問いそのものの中に、この戦乱を招いたのはそうした神への狂信なのではないかという指弾が暗示されている。神はいるのか、もしいるなら、どうしてこのような苛酷な人生を子供たちに強いるのか、ほんとうに神はこの子供たちを守り、育んでいるのか、その背後の問い詰めが浮かび上がってくる。子供たちの戸惑いと、答えることのできない沈黙の中に、彼らを真に歪めているものの存在が照射される。
ある女子の教室で、先生の命令にもかかわらず、そしてクラスの他の生徒たちが皆ブルカ(イスラム教の顔覆い/厳格なイスラム教では女性は顔を隠しておく習慣がある)を脱ぐようになっているにもかかわらず、決してブルカを脱ごうとしない女子生徒に出会う。「どうしてブルカを脱がないの。みんなもう脱いでいるのに」「いやです」「どうして」「『他人に素顔を見せることは罪だ』とオマル師が言いました」「もうオマル師はいないよ。戦争に負けたんだ。もう違う時代だ。どうして」「それは罪だからです」「もう罪じゃない。脱いだら?」「罪はいけない。脱ぎません」「脱がないんなら外に出ていなさい」と怒った教師は外を指差す。
外へ出された少女はいっしょに出された親友の女の子の必死の勧めによって、少しずつ心を開いていく。ブルカを脱がないのは、死んだ父との約束であり、父への追慕であり、父との絆そのものだった。その約束によってのみ、彼女は死者と繋がり、死者を弔っていたのだ。
ブルカに込められたその思いは、死者への悼みであり、戦乱の痛みであり、癒されない彼女の心の傷そのものだった。マフマルバフ監督は、単にタリバンの政策と教育とを、偏ったものと見るだけでなく、それがいかに人間を歪めるものであるか、そしてその歪みを持ちつつなおいたいけに生きる者の生々しい姿によって、戦乱の傷を見事に捉えている。人は心の中にある何かを支えにして生きている。それがどんなに歪んだものであろうと、ちょうど真珠貝の中に入れられた異物を真珠としてくるみ包んで育てるように、それを抱いて生きていく。その抱く姿のいたいけさに、人間の姿を見つめている。そしてそれによってこそ、戦争や暴政の非人間的な力の残酷さを浮かびあがらせている。
マフマルバフの眼差しのやさしさがそこに普遍的な光を帯びて輝いている。アフガンを戦争として捉えるのではなく、傷ついた人間の生身の痛みとして捉えている視点は、優れている。深い共感を呼ぶドキュメンタリー映画だ。
(「アジアウェーブ・インターネット」五十嵐勉/作家)