両親とタイ・ラオス旅行A


ルアンパバーンの朝といえば、托鉢である。

凛々しい表情の僧侶たちがずらりと歩き、ひざまずいた人々がお祈りをしながら喜捨をする。朝もやに煙る道を颯爽と進むオレンジ色の袈裟集団は誠に幻想的で、ザ・仏教、という感じが素晴らしい。喜捨をする人々のひたむきな信心深さもたまらない。ここは外国だぜって思うのである。

ぜひ両親に托鉢を見てもらいたいと思い、その良さを数日前から語って洗脳していた。

托鉢は早朝5時半から始まり、あっという間に終わるという、疲れた旅行中の体にはしんどい早起きの気合いが必要で、その割に一瞬の出来事である。「なんだか頭が痛いよ、私の分も見てきて」なんて母は言い出しそうだ。托鉢の素晴らしさは他人に頼んで2人分見てもらうものではなく自分で見てこそいいのである。母は私の説明に「へー」と無関心な様子で、そんなことより「朝食にラオスのフランスパンを食べてみたい、フランスパンの屋台は何時から出るの?」と花より団子状態だった。

しかしそんな心配をよそに、最初の朝、両親は4時すぎにはごそごそと起きだし、父は髭を剃り、母は化粧を始め、「お腹がすいたね」などと健康的な会話をしながら、その声で私をも起こすという張り切りようである。別に托鉢なんて、いくら良いといっても早朝の短い時間のちょっとした出来事だ。さっと起きてさっと見て、戻ってきて部屋で再び寝ればいいのに・・・・。

私たちは5時前に外へ出て、まだ薄暗いホテル周辺を歩いた。托鉢は始まっていないが、喜捨をする人々はもち米が入った大きなティップカオを持ち集まりだしてきている。いったい何時に起きて準備しているのだろうか。もちろん炊飯器のタイマーで炊いているわけもなく、きちんと早朝から火を起こして蒸かしているはずだ。

父は「ちょっとグルっと回ってくる」と言い、一人散歩へ。私と母はお寺の石垣に腰掛けて待つことにした。

すると、5時15分に僧侶たちが歩いてきた。5時半と聞いていたのに約束が違う、早いじゃないか。オレンジ集団が、年配者から子供までゾロゾロと、けっこうな速さで歩いてくる。小さな子は小学校低学年くらいだ。小さくてもニヤニヤしている者などいない。笑いも怒りもなく、かといって上の空でも無表情でもない、凛々しいとしか言いようのない「いい顔」だ。大人たちの早足に必死についていくための時々小走りがいたいけである。あんなに小さいのに、こんなに早起きをして、早歩きをして、とてもエライ。大人だってエライんだから、子供は死ぬほどエライと思う。

ところで父がいない。せっかく早起きしたのに・・・・。父は托鉢を待つわずかな時間も無駄にしたくなかったのだろう。散歩をして何かを見たり感じたりしたかったのだと思う。旅の間中ずっとあらゆるものに興味を持ち、小さなことでも見逃さない心構えで、いちいち「なぜ」と考え、探究していた。しかしそれゆえ、大事なものを見落とすというところが誠に惜しい。

人々は一人一人の僧侶が持つ入れ物に、一口ずつもち米を入れている。私が僧侶だったら「ありがとう、ごちそうさま」とうっかり持ち前の礼儀正しさで言ってしまいそうであるが、彼らはもちろん礼など言わず、ただ黙ってもらうのが堂々としていてかっこいい。徳を積むために喜捨をするのだから礼などいらない。お互い様なのだ。どちらかといえば、僧侶がもらってあげている、米を入れた上に礼も言いたまえ、という偉い立場にも見える。お互いが望んだ納得の上下関係だ。そしてこれを毎日何年も何年もやるのである。何かを強く信じていなければできないだろう。

「たくさんの人が素手で入れているかと思うと汚いよね」「私も今そう思っていた。食べる気しないよ」「しゃもじで入れてくれればいいのにね」なんて会話をしている親子に務まるほど甘いことではないのだ。

いくつかのグループの僧侶たちが通り過ぎ、喜捨をしていた人々も立ち上がった。あっけなく終わった、とそのとき、父が戻ってきた。どうやら別の場所で托鉢を見学していたらしく、「アッチの方がよかった、いい写真が撮れた」とこちらの良さも知らずに言っていたが、本人が満足できたならいいのである。

現地の人々と同じくらい、観光客もたくさんいた。8年前に見学したときは、こんなにはいなかった気がする。欧米人、韓国人、日本人などあらゆる国の人が早起きをして見学し、ビデオや写真に収めていることを考えると、これは誰が見てもいいものなのだろう。私もいいと心から思う。托鉢はなぜステキなのか。

私が感じる魅力は日常であること。ショーではなく、名所でもない。人々の生活、歯を磨いたりごはんを食べたりするのと同じで毎日繰り返される習慣。立派な滝や大仏もいいよ。でも私はどこに行っても現地の人の生活にとても興味があり、それが自分の当たり前と違うことが面白いと感じる。家の中や学校や会社。ソコの普通が、私にとって普通じゃないところが不思議でたまらなく、外国の醍醐味だと思っている。

托鉢はまさに、自分の毎日にはないココの日常であり、さらに美しく、重々しく、幻想的。何枚写真を撮っても、どれもまるで絵葉書のよう。自分の撮影技術が優れているのではなく、被写体が絶妙なのである。



(エッセイスト・桂川)


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