小学校1年生の教科書とノート。
ノートは全部ブックカバーをしなければならず、
教科ごとに色を分ける。


公立小学校の生徒たち


*連載2:インドネシア・新学期スタート



 7月13日、インドネシアではどこの学校も新学期が始まった。新しい制服に身を包み、期待と緊張の面持ちの生徒たち。実に初々しく微笑ましい。


 私事ではあるが私の息子も新1年生となり、小学校に通い始めた。私も日本の小学校との違いに戸惑いながらも勉強も毎日である。


 インドネシアの公立小学校は、低学年なら月〜土曜、朝7時始業で10時までである。始業時間の早さ、勉強時間の短さに驚く。子供の数が多くて教室が足らず、二部制をとっている学校があるためである。午前の部の子らが帰ったら、午後の部の子らが1時に登校してくる。少子化の日本からしてみれば考えられないことだ。実際インドネシアでは、「子供は二人まで」という家族啓発スローガンがあるくらい子供は多いのである。


 インドネシアの学校はどこも制服がある。公立小中学校は全国同じ制服、同じ教科書なのだが、公立とは言えそれらにはお金を払わなければならない。貧困家庭はそのために借金をすることもしばしばある。また、低学年のうちだけ通い、文字の読み書きさえできるようになれば中退する子らも、現実にはまだ多くいる。


 インドネシアでは、誰もが自分の宗教を持っていなければならず、学校で勉強する科目にも宗教という教科がある。我が家はイスラム教徒なので、息子はイスラム系私立学校に通わせているのだが、そこではイスラムの教義を学ぶ授業と、経典(コーラン)を読む授業に分かれている。コーランはアラビア語で書かれており、コーランを読むことはアラビア語の勉強でもある。中国系のキリスト教系列、仏教系列の私立校では、中国語の授業もある。小学校1年生から国語、英語、アラビア語(中国語)と語学の授業が3つもあり、しかも我が家では日本語なので、子供の頭の中が柔軟であってくれることを祈るしかない。ちなみにそのほかの教科は、音楽と美術が一緒になった芸術という科目がある。それから国民教育という科目があるが、道徳みたいなもので、その他はほぼ日本と同じとみていい。


 日本の小学生はのびのび遊んで学んでいっているように思うが、インドネシアではうかうかしていられない時期がある。というのも、小学生のうちから学年末テストがあり、留年することもあるからだ。また、小学校卒業時、中学校卒業時には全国統一試験がある。都会の学校は優秀な先生が多くいるので対策が十分にできるが、田舎に行けば行くほど合格率は低い。先生不足というのもあるし、いる先生たちもその統一試験の情報収集に、田舎であるがため四苦八苦している。


 さて、今年度の新学期だが、始まって早々大変な事件の学校がマスメディアで多く流れた。東ジャワの小学校では、その学校のある土地を市が賃貸契約していたらしく、突然土地の持ち主が売りたいと言い出した。校長は、市に買い取ってもらうよう交渉しているようだが、財政面のこともあり難航している。まだ交渉がきちんとついておらず、土地の持ち主は誰も学校に入れないように門を閉めてしまった。300人いる生徒たちはばらばらになって、近隣の道端や、モスク(イスラム寺院)の前など、屋外で机もイスも無しで先生となんとか授業をいっているという状況だ。また別の小学校のことだが、市長が小学校の土地を勝手に売ってしまったというニュースもあった。学校の門の前は軍隊や警察が取り締まっていて入れない。学校に行けないと泣く子供ら。抗議する親たち。信じがたい事実だ。未来を担う子供らの教育をないがしろにして私服を肥やそうとする大人たちの気が知れない。


 先月の連載で書いた大統領選挙は、ユドヨノ現大統領の圧勝で終わった。ユドヨノ氏は汚職撲滅に力を入れており、私がインドネシアに住み始めた4年前から考えると本当にクリーンな社会になりつつある。再選し、さらに5年の任期を務めるのだが、次はぜひ、教育機会均等を目指し、次の世代を育てていく政策に乗り出していって欲しい。学校の運営、教員の育成、家庭での教育のあり方など、細かいところまで見直していく必要がある。人口2億2千万人もいるのに、まったくいい人材を見出しきれていない。発展途上国からの脱出は汚職撲滅の後の教育にかかっていると言えよう。




(エッセイスト・ラフマン愛)


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