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青春時代
日本・香川県

横山周平
果てしなく……
私にとっては終わりのない景色に見えた
     インドネシア・バリ・ブサキ

鈴木マクシミリアン翔
別れ
 毎年行われる恵泉女学園大学・短期大学と、タイのパヤップ大学合同ワークキャンプ。今年はタイのメーホンソン県の上奥地にあるカレン族の人々が住む村へ、いくつも山を越え、6時間かけて行き、そこへホームステイしました。ここでは村全体がキリスト教を信仰しており(タイは95%が仏教徒)、ワークの内容は村の人々と教会を建てるというものでした。言葉の壁は厚いもので、タイの学生を通して、村のお父さんや男の人たちに、そしてお母さんや家族の人たちへ。決してスムーズではありませんでしたが、言葉では伝わらなくても、ワークや生活を通して心の会話ができたと思います。
 そして、一週間のワークを終えた別れの日、いっしょに建てた教会で礼拝をして、別れの挨拶をしました。自然とこみ上げる涙が、涙を呼び、それぞれの思いを抱き、家族の人たちとの別れを惜しむ学生たち。カレンの村の人たちにとっても、学生たちにとっても、きっと忘れられない日々となったことでしょう
   タイ・メーホンソン

西村悟郎
シェムレアップの子供たち
だいぶ古い写真ですみません。でも、自分でも大好きな写真なんです。これは12世紀末に作られたクメール王国の聖池スラスランに行ったとき、現地の子供たちが集まってきたので、ジェスチャーで「この池泳げるの?」って聞いたところ、子供たちは歓声をあげて服のまま飛び込み、バシャバシャ泳ぎ始めました。私は笑って見ていたのですが、ツァーの集合の合図があったので、「さよなら!もう行くね!」と言って、その場を立ち去ろうとしました。少しして、後ろを振り返ると、池から上がった子供たちがこちらを見ていました。そこで思わずシャッターを切ったのが、この写真です。
カンボジア・シェムレアップ

中島尚美
棒一本で金魚屋さん
商売道具はこの棒と金魚。棒一本に全部くくり付けて、街を練り歩きます
タイ・バンコク

奨励賞
山田のり子
村はずれの仕立て屋
小さな村のはずれ。ミシンを踏む音と、さえずるような娘の笑い声が、風に乗って聞こえてきた
ベトナム・ミト

奨励賞
野村仁美
田園
緑豊かな地の午後の風景                 インドネシア・バリ
奨励賞
かとうようこ
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恍惚
村長に喉を撫でられてうっとりしている牛。牛のあんなに気持ちよさそうな顔は生まれて初めて見た
インド・マハラシュトラ州ガッチロリ地区

奨励賞
遊川友美子
遊川さんの作品について●感想
「僕はこの遊川さんの作品をとても評価しています。牛と人間の共生をこのように撮った人ははじめて見ました。牛と人間の姿の中に、インドの歴史を感じさせるだけでなく、21世紀の人間と地球の未来を感じさせるような、すばらしい作品と思いました」
(アジアウェーブ編集長/五十嵐勉)
●楠山忠之
くすやま ただゆき

1939年生まれ
報知新聞写真部を経て、現在フリー・フォトジャーナリスト
沖縄を中心に東南アジアを取材
ベトナム戦争のサイゴン解放に立会い、記録映画も作る
「自然との共生」をテーマに石垣島空港問題、岐阜徳山ダム、東京湾埋め立て問題を追い続ける
著書多数
「日本のいちばん南にあるぜいたく」(情報センター出版局)
「おばあちゃん、泣いて笑ってシャッターを切る」(ポプラ社)
吉田敏浩
よしだ としひろ

1957年大分県生まれ
明治大学卒業(在学中探検部に所属)
フリージャーナリスト
「アジアプレス・インターナショナルに所属」
1985年3月より3年7カ月にわたり、ビルマのカチン州、シャン州へ単独長期取材
NHKスペシャル「回想のジャングル」)
96年「森の回廊」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞
その他著書に「宇宙樹の森」(現書館)「北ビルマ、命の根をたずねて」(めこん)、「生命の森の人びと」(理論社)など
選評座談会
第6回 AW写真コンテスト選評座談会

編集部■選考委員のみなさん、今日はありがとうございました。おかげさまで厳正な審査の結果、第6回の受賞作品が決定いたしました。
 今回は一三九人、写真総数五二〇点で昨年のほぼ二倍の応募があり、実に盛況なコンテストになりました。御応募いただいた方々に、心からお礼を申し上げます。アジアのすばらしい人々の姿が各地から寄せられ、熱いアジアの息づかいで審査会場もむんむんといった雰囲気でした。
 今回は数だけでなく全体に作品レベルもさらに上がり、一次予選、二次予選通過作品の数も大幅に増えました。魅力的な作品がとても多く、残したいものがたくさんありました。また六〇歳代、七〇歳代の応募者が多く、高齢パワー旋風が吹き荒れたというのも今回の喜ばしい傾向でした。実に力作が多かったと思います。
 審査委員の吉田さんにも病を押して長時間御審査をいただきました。審査員の方々の御苦労もたいへんだったと思います。ありがとうございました。
 振り返って、まず全体的な批評をお願いいたします。

●応募作品全般について
吉田敏浩■今回は応募者が今までで一番多く、構図的にまとまった写真もたくさんありましたが、最初にぱっと目に留まる写真というか、飛び抜けたもの、こっちの目に飛び込んでくるようなインパクトのある写真が、今回は逆に少なかったかなという印象があります。
 それから六〇歳代、七〇歳代の方の応募も多かったんですが、おそらくグループで撮影旅行に行って撮ったと思われる写真が多くありましたね。そのような撮り方も決して悪いことではないですが、逆に、個人でアジアを旅して、こだわりながら、長い時間をかけて撮っていくという写真が今回は少なかったかなと思います。
染谷學■吉田さんがおっしゃったように、今回の応募作品には、旅のお供にカメラがあったというよりも、撮影のために現地を訪れたというものが数多く見受けられたと思います。もちろんカメラを持って旅するということは、とてもいいことだと思うんですよ。よく、「写真に撮ることばかり考えていると、実際に自分の目で見ることがおろそかになってしまう。」という人がいますけど、僕は決してそんなことはないと思っています。というのは、我々は目も耳も鼻もあって五感というものを持っていますが、実は、意外に物を見たり感じたりしていないことが多いんですね。
 ところが、カメラを一つ首から下げて、写真を撮るという目で歩いていると、普段見過ごしてしまったり、感じずに過ごしてしまうものに、目を向けることができたりするんです。例えば、カメラを持っていなければ気付かないすれ違いざまの人々の喜怒哀楽みたいなものが、カメラを持っているがゆえに感じられたりということがあるんです。だから、写真を撮るために旅をするということでもいいとは思います。
 ただ、今回の印象では、カメラを触角として旅をし、人々や風景に出会ったというよりも、写真のための、絵作りの素材としての被写体に接しただけという印象を与える作品が多かったように感じられてしまいました。だんだん傾向が変わってきて、このコンテストがいわゆる写真コンテスト的になってきたということなのかもしれませんが、やはりアジアウェーブ写真コンテストは、読者に限らずアジアを愛する人たちが自らの旅をする中で、人や風景と触れ合い、その感動の中から生まれた写真を応募してくるというのが基本だと思うんです。今回の応募作品には被写体を求めての撮影ツァーで撮られた作品の域を出ていないものがだいぶ見受けられました。
楠山忠之■旅に出るときにどうしてカメラを持っていくのかなというところからもう一回考え直さないといけないんじゃないかなと思いました。我々は当たり前に思っているかもしれないけれども、アジアの中でも日本は、海外に自由に行ける恵まれた国なわけですね。自由が当たり前になってきたときに、はたして、何を見に行きたいのかな、何を伝えたいのかな、アジアという領域がどういう風に見えてるのかな、ということをもう一度問い直したくなる。その点が当初に比べてみると、やや薄まってきた感じがしますね。そういうことにこだわりがなくなってきている感じがします。
 やっぱり原点としては、俺はこんな場面に出会ったぞとか、私はこんなすばらしいアジアの風物を見たよ、アジアのすばらしい人々に出会ったよということをみんなに伝えたいというところを目指してほしいなあと思います。
 というのは今回はそういったものが少なかったからなんですね。写真につかまれて、それが目に焼きついて離れない、いやいやもっと他にいい写真があるだろうといった、ある意味でうれしい悲鳴みたいなものが今回は残念ながら少なかったですね。
 それは、高い技術を感じるものが多かっただけに、アジアに求める心というかな、詩の部分というのかな、そんなものが少々なえてきたんではないかなという印象でした。大げさに言うと、僕たち日本人が情報の渦の中で、物を見る心を忘れて、感動を伴わないで見てしまう、あるいはシャッターを切ってしまう、ましてや、絵柄を見つけてシャッターを切るというようなことに陥り始めたのかなという危機感を少し感じましたね。

●アジアウェーブ賞について
編集部■アジアウェーブ賞については、どのような評価でしょうか。
吉田■戸塚喜八さんの受賞作品は、七月のモンゴルで、ナーダムという大きな伝統的なお祭のときに撮ったものです。祭のいわゆるハイライト部分、馬の競走とか蒙古相撲とか、踊ってるところとかをもっといろいろ撮影しているのかもしれませんが、応募してきたものを見ると、若い男女の踊りもありますが、他に牧場の少女やパオというテント、祭の外側の部分をうまくすくいとっていて、そんな流れの中でこの祭があるんだというところを見せてくれています。
 若い男女が手を繋いで踊りながらはにかんでいる表情だとか、この女の子は家族といっしょにやってきたのでしょうか、髪にきれいな飾りをしたりして、後ろには馬が写っています。こういったモンゴルの夏の中で出会った若さがよく描けています。子供と若者の写真があり、常に後ろには緑の草原が写りこんでいて、馬や伝統的住居のパオも写りこんでいますね。この女の子のほっぺたに土なのか馬の糞なのかわからないけれども、何かひっついている感じとか、草の匂い、子供の産毛とか、少女の肌のこの年代にしかない感じとかにみずみずしさを感じて、この写真はいいなと思いました。
楠山■アジアウェーブ賞という最高の賞に必要なこととして、やはり撮影者が対象に向かう姿勢が問われるし、技術的にもきちんとしていなければいけないし、かといって、うまいだけではだめで、見る我々が何か新鮮なものを感じたいという、いろんなものが求められるわけです。しかしまた同時にそこに平易で、わかりやすく、なおかつイメージの深さを発想できる、そういう作品をも要求されるわけです。
 今回、アジアウェーブ賞を決めるのにはかなりの時間がかかり、いろいろうまい写真があって、審査員の中でも意見が分かれるくらいでしたが、この戸塚さんの作品は、うまさという点では、技術的に飛びぬけてうまいということではなかったのですが、戸塚さんの写真は何かとても素直で、審査とかを一瞬忘れるような温かみがあるように思われました。いくつか肩を並べるものが他にあったわけですが、私はこの写真を推しました。
 最近の傾向なんでしょうか、アジアへ撮影会みたいにして行って土地の人々を撮るという状況が多く見られるようになってきた。おそらくこの方に関しても、一人で行ったのではなく、何かのツァーで行ったのではないかと想われるんですが、しかしそんな状況の中でも、この方の場合は、自分の視線というか、自分がこのモンゴルで何を見たいのかということをきちんと探しながら、写真を撮っているなあという感じがしたんですね。現場に元からあるものを、すくい上げて写真にしている。
 組み写真で応募という意識はないようですが、牧場の少女を除く四枚に関してはまさに不足なく、一枚でも離してみることができないような、それぞれの価値がありますね。ゆえに、一枚では物足りないということがあるにはあるのですが、この方の心の流れみたいなものは感じられるんですね。お祭の中では、例えば馬の競走のような激しいものもあるのかもしれないけれども、人々の生活の、何かやさしい日常の部分を汲み取っている気がするんですね。吉田さんが言ったように、特にこの女の子の写真は、馬の首が切れているだけに、背景としてうまく処理されているところだとか、赤いドアのパオに座り込んだ青年、これはもしかしたら記念撮影用にこんなかっこうをしているのかもしれないけれども、この方はこの方なりの絵作りというんでしょうか、赤いドアに緑の草原、青い空というものを、ひじょうに素直に撮っています。それから、何よりも何気なく撮ったというような、羊と少女の写真ですね。ただ行事の中だけで終わらないで、撮影会の中でも彼は何かモンゴルで撮りたいものをきちっと出そうとしたというところが、秀逸だなあというふうに思いました。
 むしろ、一人旅のほうが自分の勝手で撮れるわけで、逆に撮影会みたいなほうが難しいわけです。これからそんな中で、どういうふうに写真を撮るかということへの、一つの提言というか、見本を見せてくれたような気がしたので、あえて、アジアウェーブ賞ということで、先を見越した形で、この作品を推しました。
染谷■正直に言って、僕はこの作品をアジアウェーブ賞には推しませんでした。というのは、一枚の写真として訴えかけてくるものが乏しいように思えたからです。羊の写真などはわりと好きな写真ではあります。それは少女や羊よりも、背景のペンキの薄れている感じとか、土壁の感じなどが、この土地の風土や人々の暮らしを伝えてくれるところに魅力を感じます。「そんな、写真の主題ではないところばかり取り上げて!」と作者ならずとも思われることでしょう。しかし、写っているものは全て等価なんです。むしろ、作者が主題としているものには、なにか撮らされてしまっているような、用意された被写体のようなそんな気配を感じてしまいます。もちろん、ご本人には不本意な講評に違いありません。
 民族衣装の写真なんかは夕方の柔らかい光で、普通なら真正面から撮ってしまいそうなところを左にまわりこみ、大地の広がりと、西の空とは反対の夕方らしい青空を美しく捉えています。しかし、カメラポジションの巧みさを思うと同時に正面に陣取ったカメラマンたちの姿を想像してしまうんです。羊の少女の目線の先にも別のカメラの存在を感じてしまうんです。もちろん、それは僕の邪推であるかもしれません。でも、総評でも申し上げたように、この作品には何か被写体がために被写体という雰囲気を感じずにはおれませんでした。勝手な物言いで申し訳ありません。
 ただ、写真の撮り方はとても素直で、レンズワークもいいと思いました。強引に写真にしてしまうところもなく、その時々ですっと向けられたカメラが創り出した映像は好感が持てます。そういう意味では見ていて気持ちのいい写真でしたので、他の審査員の方に同意してアジアウェーブ賞に決定しました。

●白象賞について
編集部■白象賞についてお願いします。
染谷■ミャンマーの写真ですが、僕はこの野田博子さんの写真をアジアウェーブ賞に推していました。まず、だれでもひと目見て美しいと思うはずです。写真はよく「光の芸術」だという言い方をされます。真を写すなんていうのは日本だけであって、フォトグラフィーというものも光で描くという意味であるわけです。
 写真の、その成り立ちであるところの光というものをひじょうに美しくとらえているところが、何よりのこの作品のよさですね。ただ、こういった逆光の写真、シルエットの写真というのはすごく単純になりがちでもあります。アマチュアのフォトコンテストの写真なども見せていただいていますが、海辺のシルエット写真みたいなものが上位に入りこんできているんです。それらの写真は美しいんですけれども、すごく単純な影絵でしかないものがほとんどです。でも、この野田さんの写真は単なるシルエットで終わっていないで、シャドーの中にも女性の表情があったり、土産物屋の商品ひとつひとつが見えたり、またそういった横顔や物にこの写真の持ち味である光が美しく輝く輪郭として差し込んでいる、そんなところがすばらしいと思いました。それと普通だとオーバーで飛んでしまう外の景色も、明るい中にきちんとパゴダが見えたりして、パガンの土地柄もよく伝わってきていると思います。
 僕は毎年このアジアウェーブのフォトコンテストの審査をさせていただくときに、ずっとこだわり続けてきたのは、やっぱり一枚の写真が持っている強さというものなんです。
写真が写真として独自の表現を保っていけるのは、ビデオとか映画とかのような流れる映像とは違った、止めた一瞬の中に写っている普遍性、まあ大げさに言えば来し方行く末みたいなものが全てその一瞬の中に込められているというような、そういった強さゆえであって、そういう写真がないだろうかと探して審査をしているわけです。この写真なんかは、夕暮れ時の一瞬だけれども、今日一日を過ごしてきたさまざまな人たちの一瞬であって、それが時間的な前や後ろも含めて集約されているように思えたんです。それが、この写真を推した理由ですが、またタイミングもよくて、これで写真のなかの彼女がもっと近くで正面を向いていれば逆に陳腐な写真になってしまったでしょうし、もうちょっと離れてしまっていたら、市場の状況写真で終わっていたでしょう。光も彼女が外の明るい風景と重ならなかったら顔の輪郭を美しく縁取ることが出来たわけです。
吉田■染谷さんがおっしゃったように、野田さんの写真は光と影をきれいにとらえているわけなんですけれども、それだけではなく、ここのパガンという土地ですね、パゴダの古い遺跡のある町ですが、向こうにうっすらとシルエットがある感じ、また名産の漆器を並べた棚が光を受けている感じもいいですね。
 大学生くらいの若い女性がいて、そこにパゴダとか、漆器とか、弁当の箱などが重ねてあったりする状況があり、ビルマの人たちの生活というものを写し込んでいる。何かこの女性を中心に一つの物語が描かれているような感じを与えていますが、しかもそれを偶然に、自然に撮れた感じが伝わってくるところがいいと思った理由ですね。

●青龍賞について
編集部■青龍賞は今回三人ということになりました。それぞれの御推薦のコメントをお願いします。
楠山■金田裕美子さんの作品は五枚のうち、三枚が組み写真という指定ですが、この五枚のうち四枚に、川とか川を背景にした生活が写りこんでいます。残り一枚、これはビエンチャンですか、そばを売る人の写真がありますが、これは蛇足でいらなかったかなと思います。この四枚は水というタイトル、あるいは川ということでまとめていれば、もう少しわかりやすく、僕たちに感動的に伝わったのではないかと思います。
 四枚の写真は、川という、つまり水と川とのつながりが映像化されてるわけですけど、もちろん見てそんなにびっくりするような写真ではないんですけれども、なにかこう、人と川とが溶け合っている、つまり日本のように垂直護岸の川のなかで生きている、わたしたちとは違う人々のやさしさ、和やかさみたいなものがその人びとの表情に出ているということが、まず何よりも、僕たちに、振り返って見る機会を与えてくれるんですね。夕日があり、緑があり、そしてそこで食べ物を運ぶ人がいて……
 この写真はラオスですけれども、「子供のなる木」という洒落(しゃ)れたタイトルをつけていますが、高い木の上に子供たちがいる。こんなことは、日本でもし子供たちがやったら親たちが飛び上がらんばかりにびっくりして、下手したら警察まで呼んで子供たちを引き下ろしてしまうと思うんです。そのために子供たちが自然からどんどん離れていく。しかし、ここには本当に子供たちが人として生まれてきて、あるがままに生きていけば高い木にも登り、川にも飛び込みという、あるがままの生活、人の生き方というものが写し出されている。写真としてはうまくもないし、下手でもないんですけど。でも、この金田裕美子さんという撮影者が何か一つ一つ感じながら撮っているというところがまず気に入りました。写真としてうまい人は実は他にもいるのですが、僕はこういう、旅の中でシャッターを切るときに一つ一つ、「うん、そうだよね、これだよね」とか言いながらシャッターを切っている、金田さんの姿が見えるようで、なんだかとても嬉しくなる写真なので、青龍賞に推しました。
染谷■同じく青龍賞の水野麻弥さんの作品はインドの写真です。今回青龍賞が三名になったのは、審査員の三人にそれぞれ譲れない作品があったからで、僕はこの「それぞれの日常」という水野さんの写真を推させていただきました。
 水野さんの作品は、まあ悪く言えば雑多な写真です。ただその雑多というのが、決して見苦しい雑多ではなくて、水野さん自身がコメントにも書いているように、「屋台の人、参拝に来た人、犬、みんなそれぞれの日常を生きている」というのがとてもよくこの写真の中に写りこんでいるように思います。今雑多と言いましたが、それはここでは調和と言い換えた方がいい。またそれが、目の高さから撮った写真ではなくて、ハイアングルで撮られているからこそ、「それぞれの日常」が見えるわけです。例えば、ここにはいわゆる物乞いといわれる人たちがいたり、犬が寝ていたり、これはおのぼりさんだと思うんですけども、インドの地方からカルカッタのカーリー・テンプルに来た人たちが写っていたりして、本当に見ていて飽きない写真です。それから、ご本人が意識されているかはわからないですが、このお店とか、昼寝している犬なんかは、自然の木が作り出した木陰に集まっていたりして、写真としての「光と影」のよさと同時にやはりインドの日常を感じさせてくれます。奥のほうに屋台みたいな店をやっているおばちゃんが水色のサリーを着て子供を抱えていたり、その後ろの男の子はパンツもはかないでフリチンで歩いていたりとか、もう本当に楽しい。
 ごくあたりまえのものばかりなんだけど、それを水野さんは、ひとつひとつに目を配るように、写真を見る人がこのなかで目を遊ばせることが出来るように、そんな撮り方をされたんだと思います。これも、流れる映像にはない、一枚写真の魅力です。
 インドというところは、すごく被写体に恵まれていて、どこを歩いていても、被写体として強いものなんかいくらでもあるんですね。だからこう、ついつい寄っていって撮ってしまう。「これはどうだ、これはどうだ」というような撮り方をしてしまう人が多いんですけれど、この水野さんは一歩引いて、いろんな人がいろんな生き方をしているんだなと、私も生きていて、ここでそういうインドの人たちの暮らしを見ているんだなと、そんな目でこの写真を撮っているんじゃないかなと思います。自分がここ数年カルカッタに行って、写真を撮っていたせいなのかもしれないんですが、この方のインドの人たちを見る眼に共感を覚えました。
吉田■青龍賞の吉永明美さん、六八歳の方で、作品は「午後の一時」というミャンマーの写真です。
 ビルマの東北部にあるシャン州というところですね、シャン高原の、タウンジーはその州都ですが、タウンジー近郊の村か町のはずれ、後ろに山が迫っていますので、郊外の方の村だと思います。平成一一年十一月一九日撮影とあります。私もシャン州を訪ねたことがありますが、十一月というと、雨季があけて乾季になり、雨が降らなくなって、あんまり暑くなく、この地方では、朝晩涼しくていい季節なんです。おばあさんや初老の女性、それから後姿を見ると娘さん。民族衣装の、ビルマでいうロンジーですね、水浴びするときには、こう腰巻をたくし上げて、胸も隠して、井戸から水を汲んで、水浴びをしてるんですね。バケツから水をかぶっています。井戸のまわりの赤土や、後ろの木に光が照り映えているところ、それから女性たちの肌に、午後の西日があたっているところや水飛沫の冷たいさわやかな感じがよく表れています。畑仕事したりして働いてきた女性たちが汗を流している。今日はどんな汗をこの人たちは流してきたのか、また、これまでどんな汗を流し続けてきたのか。想像をかきたてるような写真です。この若い娘さんたちも、両脇に年配の女性たちが映っていますが、だんだんこうやって、毎日、汗を流し、水を浴びながら、身体を水できれいにしながら、また年をとっていくという、なんかそういうこの井戸の、水浴び場、水場の周りで繰り返されている、地元の、シャン人の女性たちの歴史、時間の流れみたいなものもですね、この一瞬に写りこんでいる。六八歳という吉永さんの、対象を見つめる眼差し、感覚がひじょうに艶やかというか、そういうものを持っている人だなと思って、この写真を推しました。

●優秀賞について
編集部■優秀賞にもとてもいい作品がありますね。それぞれをどのように御覧になられましたでしょうか。
楠山■松嶋浩平さんの「7デイズ イン インディア」という作品は、インド七日間の旅をテーマにした作品です。四点の組み写真ですね。モノクロで66oのレンズと35oで撮ったものと二つ組み合わせたものですけれども。二七歳という年齢ですが、だいぶ写真は撮ってきていると思いますね。ほぼ自分のスタイルも見つけているし、正直言ってかなり高い賞をとってもいいんではないかという話も私たちの中でありました。私自身今もそういうふうに思っているんです。その理由は、旅をしているときに多くの作品があれもこれもと被写体探しになってしまうんだけれども、松嶋さんはきちんとこの四枚の写真の中にテーマを絞って、自分が旅の中でかかわり合った人に絞って撮っている。しかもそれを、シンプルというかひじょうに平易に写し撮っている。それが、写真一つ一つのさりげない、記念写真の風景の中に、力強さとして残っている。絞り込んでいるような気がするんですね。長年、旅をしてきたかもしれない、あるいは長いこと彼が写真にこだわってきたというところが、写真に表れているんですね。これは彼自身が焼いたんだと思うんですが、写真の調子もかなりいい技術を身に付けているし、この四枚の中に、インドの貧しい階層の人もいれば、どこかの坊ちゃんのような裕福な、小学生ですか、中学生かわからないけれども、学校に通っている姿もあるし、そして、その子供たちの中に、自分がずっと乗せてもらった人力車のおじさんが、この人がベストだと、素晴らしいドライバーだったという、つまり、自分の視点をそらさないで、インドという広大な国を、四枚の写真の中に封じ込めるというか、描き出したという感じがします。この人は本当に力があると思いますので、今年アジアウェーブ賞でなくても、近々アジアウェーブ賞のようなさらに上の賞が取れる人ではないかなと思って、逆に期待したいということで、今回は優秀賞になりましたけれども、本当に力があるところはすごいなと思いました。
 二七歳というと、これから伸びていくわけですが、逆にこの若さでどうも自分のスタイルにもう落ち込んでしまっていて、安定している。その安定感がちょっと気になります。もっともっとこれから伸びていくわけですから、冒険する気持ち、アングルですとか、カメラワークがほしいかなと、いうところで次の挑戦的な写真を期待したいと思います。
 もう一つ、僕は束【ルビ(】つか【)ルビ】野【ルビ(】の【)ルビ】由【ルビ(】ゆ【)ルビ】佳【ルビ(】か【)ルビ】さんの写真はひじょうに好きなんですね。撮影場所はカンボジア、シェムリアップです。シェムリアップといえばアンコールワットの町で、やっぱりアンコールワットは作品の一つに出てくるんだけども、正直言ってアンコールワットの写真はつまらない写真ですね。ただ、ここに出てくる「自転車」というのと、「店番」、それから「夕暮れ」といってくつろいでるおばさんはいいですね。なかでも「自転車」はいい。自分の体験と重なって、感動を覚えました。この「自転車」というのは、お寺の境内で遊ぶ子供たちで、大きな自転車に乗る練習をしているシーンです。僕たちが子供のときは、三角乗りといって、大人の自転車を乗ったんですね。その三角乗りスタイルがこの子にあって、なんかすごく嬉しくなっちゃいましたね。こういう姿はもう日本では見られなくなってしまった。僕たちも、三角乗りをして、倒れては乗り、ひざに傷をしながら、この子も半ズボンですから、たぶんひざにだいぶ怪我もするでしょうし。しかし、こうやって少年の時代には自転車に乗ることはかなり大きな挑戦なんだね。乗れるか乗れないかっていうのはもう、本当に人生かけたような気持ちになるんですね。それが、こう後ろから倒れないように押さえ込んでくれてる、信頼する友だちがいる。信頼できる友だちじゃないと、これすぐに手離しちゃうんでね。そして、その友だちにそむかないように頑張っているこの子供の表情。これがね、なんかすごい好きですね。大学生ですか、この方は。シェムリアップという場所で、多くはアンコールワットへ行って、アンコールワットの写真を撮ってくるなかで、こういう日常の子供たちの遊びに興味を持って、しかも、練習風景というワンショットは、なかなか撮るのが難しい。それをスナップできた、というところはかなり高く評価できるのではないかなと思いました。
 店番のお姉ちゃんもね、なんかさりげなく撮ってる写真で、とてもいい女の子の雰囲気が出ているし、おばさんもまさにカンボジア人らしいおっとりとした雰囲気。写真を撮られても、別にかまわない、はい、撮りなさいよ、といった太っ腹のお母さんの姿でね。その太っ腹のお母さんに似せるかのように、後ろに大きな木があるという。樹齢何百年というような木と共存しているような、カンボジアの、おっとり、ゆったりとした時間を感じます。この三枚は、とても好きな写真です。
染谷■佐野緑さんの鵜飼の写真も興味深い写真で、鵜飼というのは日本でもこのシーズン、各地で盛んに行われていますけども、同じようなことがこの上海でも行なわれているんだなと、あるいは古くは中国から伝来したのかなとか、日本の鵜飼と違って縄をつけないんだなとか、思いながらまず見せていただきました。この写真、もっともっとおもしろくなるシーンだと思うんですが、これが優秀賞で止まってしまったのは、ひとつにはやはり人物の表情が二人とも見えないというところにあります。それと動きの乏しさでしょう。それがとても残念です。やっぱり、鳥と人間とのかかわり合いの中で、表情も含めてですね、「よくやった、よくやった、魚を捕ってきたか」というようなところまで写してはじめてこの写真が完成するんじゃないかなと思います。
この方の写真に限らず、このコンテストで見せていただいていると、応募された写真の前後のコマも見てみたいなと思うことがよくありまして、この写真も同じです。この前や後ろにいったいどんな写真が撮れていたのか、ひょっとしたらもっといい一コマがあるんじゃないか、と思ったりするわけです。この写真を一枚撮っておしまいだったのかも知れませんが、大切な旅の中ではフィルムは一番安い物です。たくさんシャッターを押していただきたい。
吉田■優秀賞の加藤寿男さんの作品はベトナムの日常を撮った作品です。街の横丁の家族の庭先に入っていって、飼い犬と少年が会話しているようにたわむれてな、それを、近所の子供とか、お姉さん、お父さんお母さん、家族が見てるという、昼下がりの情景を写しています。それから、これはフォーっていううどん、米で作った麺をですね、天秤棒で担いで行って路上で売って、それを何人もが食べているところ。周りでどんぶりを頬ばっているおばさんですとか、路上の食事風景。あと、生活感のある、これは萱葺き屋根の農家だと思うんですが、「寛ぎ(くつろぎ)の時」という作品。台所の隅に、ハンモックを吊るして母親が小さい子供を昼寝させているような情景を撮っています。写真を撮りながら、この場で共有しているものがある。くつろぎの時を共有している。旅先で撮った写真で、一瞬なんですけれども、その一瞬であれ、時間と空間を共有してる感じがよく出ていて、優秀賞に推しました。
染谷■楠山さんと、吉田さんからお話があったお二人の写真に、ちょっと僕なりの感想を言っておきたいものがあります。まず加藤さんの、ベトナムの写真ですね。この写真は、広角レンズを使って一見雑多なフレーミングのようですが、その画面の外の写っていない部分を想像させる巧みさがあります。よい写真というものは画面の外側まで写し取っているものです。
 これと対照的に松嶋さんの写真は、内側に完結していくよさがあります。わざわざ引き伸ばし機のネガキャリアーを削って、ふちを出して、ノートリミングで写真を見せていらっしゃいますが、この黒縁が映像世界を内側に閉じ込めるような効果を出している。外側を感じさせないということは、内側に構成していくことで、造形感覚と共に、作者自身の存在や撮影の意図が強く見えてきます。そのかわり写っている人たち、被写体と写真を見ている我々が対話できるかということ、どうしてもその間に作者を感じてしまって、インドを見ているというよりも、松嶋さんの眼というものを強く見せられている感覚を持ってしまいます。
 もちろんそれは、作品としての完成度が高いということで、表現としては大変優れているということです。ただ、今回のコンテストの場では、被写体の中に我々の目をすっと引き入れてくれるような写真の方が好まれたのだと思います。作者の姿が強く出すぎた、それを楠山さんはスタイルと言ったのだと思いますが、みんな多かれ少なかれ引っかかりを感じたのだと思います。それと、コマーシャルのカメラマンの撮ったエスニック風フォトみたいに見えてしまうのも損をしています。
楠山■川端岳郎さんのベトナムの少数民族の作品はきれいな写真です。ベトナムの北の方ですか。この方はずっとバリ島を撮られた、優れた写真を応募された方で、この方もすごく写真的な完成度が高くて、無駄がないというか、破綻のない画面作りをされる方で、撮影の場所が移ってもなお、安定した技術を誇っていらっしゃる。素晴らしい撮り手だと思います。
 ただその部分が、川端さんに関しては、数年前にもコメントしてますけども、ちょっとコマーシャルっぽいイメージになってしまっているということをお話したことがあると思うんです。今回はそんな写真の中に混じってですね、夕方、ストロボ一発真正面からぽんというような写真が混じっていまして、それがかえって、臨場感というか、現場の雰囲気を伝えてきて、一枚雰囲気がちがう作品について特にいいねと、三人の審査員がみんなその写真には興味を持ちました。水牛の写真です。それとは別に、望遠レンズで引き寄せるかたちで撮った、この道を歩いている、市場にでも行くような、少数民族のモン族の方ですかね、モン族のマーケットの帰り道という写真、これも背景に馬が写っていたりとかですね、山の中腹に家を作ったりするんでしょうか、そこに登っていくための階段が写っていたりとか、よかったと思います。いわゆる、できすぎの写真ではなくって、すごく生活感を感じさせてくれる写真があって、この写真が優秀賞というふうに選ばれています。ですので、川端さんに関して言えば、思いがけず写ってしまったというような、つまり、その思いどおりに写った写真を選んで応募されるのではなくて、自分のスリーブの中から、撮影したときには意図しなかった、被写体の方が見せてくれる姿みたいなものを選び出されるような、そういった写真の見方をされたら、もっともっときっといい写真が実はお手元に、あるんじゃないかなというふうに思って拝見しました。

●その他の優れた作品
編集部■編集部での予選で評価の高かった作品など、これら以外にも、たくさんいい作品があります。印象に残った作品について、触れていただきたいと思います。
楠山■僕は、シンプルというか、平易というか、そういう写真の力強さを大事にしたいと思ってるんです。そういう意味で言えば奨励賞の遊川友美子さんの作品は印象に残りました。「恍惚」という作品は、牛が喉を撫でられていて、本当に、まさに恍惚の目をしています。でも、牛に恍惚というのはちょっと合わないかなと……。ちょっとタイトルが先走りすぎていて、もうちょっと平易でいいんではないかな、と思ったんですが。遊川さんが撮ったインドの三枚のモノクロ写真は、フレーミング、つまりどういうふうに構図を作ろうかということをあまり考えずに、たいへん実直、率直、そのまんまという形で写真を撮っているように見えるにもかかわらず、自分がそこに溶け込んでいる感じがあるんですね。ですから、うまい写真でもないんですけれども、見てるとなんだか微笑ましくなる。「Toy」というタイヤを持っている子供の作品だとか、ポーズをしたら二人がなんか違う格好をしたという「朝」とかいう作品は、カメラを構えている遊川さんが自然にこの子供と同じような低いポジションを取っているんですね。アングルとかそういうことを多分考えてないと思うんだけど、朝ぶらぶらと歩いていて、こんな風景に合った。すごく楽しくなったという、それは、写真のできはどうであれ、この人のカメラを媒介にして、アジアの人々と一つつながった瞬間ではないかなという点で、評価したい作品でした。写真のおもしろさというよりも、ここでこういう人たちと出会い、そのことに感銘を受けたことが、多分、脳裏にというか、心温まる思いになったんだと思うんですね。それがそのまま写真に出ている、という一番単純な形でのいい写真だと思います。目に焼き付く写真でした。
 同じく奨励賞の藤本紘一さんのパキスタンで撮られた「ポーター嬢のひととき」も印象に残りました。たぶん、藤本さんがお独りで旅をしたのではなくて何人かの方で旅をしたんだと思うんですが、何枚かの作品の中で、おそらく藤本さん自身が「やった」という感じでシャッターを切ったのが、この作品です。「ひととき」というタイトルはちょっと合わないかなとは思いますが、彼女はひとときを利用して、小川のような流れで洗濯物、洗い物をしてるわけですね。仕事の合間を利用して仕事をしているわけですから、一休みではないんですが。この女性が日本のどこかで見るような、しかし、いま日本の中では、どんどん素晴らしい女性が出てきてはいますけれども、何か存在感があるという意味では、その原型に近いというか、何か力強く「おっかさん」というような、親しみを感じる女性の姿がストレートに撮れてて、僕はこの写真は、女の人の生きているエネルギーみたいなものが写っていて、好きです。
吉田■やはり奨励賞の、かとうようこさんの作品も印象的でした。インドネシアのバリ島の緑豊かな地域の午後の風景が撮られています。田んぼが写っていて、村があって、向こうの空に雨雲が出ている。雨上がりだと思うんですけど、田んぼの方から水蒸気が上っています。人は道の向こうから、頭に籠を載せて、野良仕事から帰ってきているような小さな影だけです。あと、むしろこの写真のポイントはここにあると思いますが、田んぼの神様というか、精霊を祀(まつ)っているらしい祠(ほこら)が畦道(あぜみち)にあります。アジアの稲作世界の風景が象徴的に描かれていて、引きつけられました。いつもアジアウェーブの写真コンテストでは、その写真の中に入っていきたくなるような風景、光景に出会えて嬉しくなるんですが、今回そういう意味で入っていきたくなるような写真がちょっと少なかった。この写真と、あと青龍賞をとったビルマの水浴びをしている女性たちの作品と、モンゴルの馬を背にした少女の作品くらいだったんですね。この作品は人間はもう点景としてあるだけの風景写真なんですが、ここに祠が一つ写っているだけで、アジアの稲作世界の豊かさ、広がり、深さを感じさせる写真だと思います。
 それから、同じく奨励賞の山田のり子さんのバンコクの金魚売り屋のおじさんの写真もよかったです。最初に見て、これがなぜ気になったかというと、いつもアジアウェーブの写真を見るときに不思議なんですけど、もし自分がこの国のこの町に生まれて生きていたらこういうことをやってたんじゃないかな、これは、もう一人の俺じゃないかなというように感じる時が必ずあるんです。去年も、バンコクのガードマンかタクシーの運ちゃんが、昼下がり、ぼーっと放心状態で座っていた写真があって、あれはひょっとしたら俺じゃないかっていう、そういう不思議と自分を重ねて感じる写真がありました。今回はこれがその写真なんです。この金魚屋のおじさん、この人どんな人なんだろうな、家へ帰ったら子供が何人いるんだろうなとか、何年この仕事をやってるんだろうなとか、まあ自分がおじさんになっているせいかもしれないですけども、いくつも金魚を入れたポリ袋をぶら下げて生きているこのおじさんに、何かこう切実なものを感じましたね。
 さっき楠山さんがおっしゃっていた藤本紘一さんの作品も記憶に残りましたね。アジアでは洗濯物をするにしてもこうやって、しゃがみこんで長時間洗濯をする女性がいっぱいいるわけです。そうしたくましさが彼女にはあって、我々の母親やおばあちゃんたちのたくましかった時代が、ここから滲み出てくるようで、懐かしさを感じました。
楠山■奨励賞の野村仁美さんのベトナムで撮った何枚かの写真の中で、僕が気に入ったのは、女性の働く姿の二枚の写真です。「村はずれの仕立て屋」と「市場」という作品です。「村はずれの仕立て屋」は、小さな村はずれ、ミシンを踏む音と、さえずるような娘の笑い声が、風にのって聞こえてきた、ということです。「市場」は市場で昼下がりのシェスタで寝ているお母さんを撮ったものです。どちらも通りすがりに撮った写真ですけれども、ここにはベトナム女性の働くことをいとわないたくましさみたいなものがあるし、その明るさみたいなものもある。竹の壁に新聞紙が貼ってあるのは、彼女たちが自分たちの声の高さを気にして、隣に響かないようにしてるのかなと思うようなものがあって、まあ写真というのは、一枚の写真を語るときに千文字でも足りないと言いますけども、撮影者はそのことを気づかないで撮ったのかもしれないにしても、僕たちは高らかに笑いながらミシンを踏んでいる彼女たちの精神みたいなものを、この一枚の写真から、奥深く受け取ることができます。このシェスタの写真は、家に帰っていろいろな悩みごともあるし、生活の戦いもあるお母さんが、ふとまどろんでいるこの姿は、悲しくもあり、敬愛すべき姿でもあるわけです。この二枚の写真は人間のいとおしい姿が写っていると思います。
 それから、中島尚美さんの「カンボジアにて/シェムレアップの子供たち」という作品ですが、実は撮影日が一九九一年で古いんですね。彼女も「古い写真ですみません。でも自分でも大好きな写真なんです」とその由来を長く書いています。キャプションによれば、この写真を写したのは、一度集まった子供たちが、散った瞬間を振り向いて撮ったということですが、もちろん写真というのはかなり偶然が入ります。でもこれは、大変ラッキーな偶然で、これだけ子供の群像が、ばらばらでありながら、子供たちのありようを捉えた写真というのもまた珍しいんじゃないかなと思います。ただアジアウェーブの規定で言えば、サービスサイズではないので、これは対象、選評の対象から外されてしまったのはひじょうに残念です。やはり応募する限りは規約を守ってほしいですね。これは大きく伸ばすときっといい写真だと思いますし、もしかすると、賞に入った写真ではないかなと思いました。
染谷■鈴木マクシミリアン翔君の作品は、どこの賞にも入らなかったんですけど、注目しました。鈴木君は一四歳、中学三年生です。過去六年間で最年少応募だと思います。
一枚一枚の写真の裏にちゃんとしたキャプションがついていまして、たとえば「私にとっては終わりのない景色に見えた」などという、言い切り調の藤原新也を思わせるような文がついていたりします。もちろん写真表現としてはまだまだで面白味には欠けるのですが、だからといってダメなのかというとそんなことはない。というのは、やはりこのキャプションをつけるために翔君は自分の写真を何度もよく見て、自分がいったいここで何を感じて写真を撮ろうとしたのかを、写真の中からあらためて見つけ出そうと努力している。これはとても大切なことで、撮っただけで終わってしまって、ああ上手く撮れた、よく撮れなかった、といって一喜一憂している写真クラブのおじさんたちに比べてですね、この鈴木君が自分の写真の中に、自分の思いや自らの姿を見つけていくという姿勢がよく感じられて、この先楽しみだなと感じました。
 やっぱり写真というのは絵柄の出来栄えだけではなくて、撮るという行為によって何かを感じ、撮った自らの写真によって被写体や自分自身のことを知る。そしてまた撮影に出かける。写真は自分自身の鏡だとよく言われるように、それが大切なことなんだと思います。翔君はまだ一四歳で、僕の年になるまでまだ四半世紀もあるわけですから、この調子で自分の写真との対話を続けていってほしいを思いました。
 西村五郎さんの「別れ」という作品も気になった一枚です。タイのメーホンソンで撮った写真ですね。恵泉女学園短期大学がタイのパヤップ大学と合同ワークキャンプをした際のお別れの場面で、この女学園の学生が涙してしまっているというところです。まあ、いわば、テレビのウルルン滞在記のラストシーンのような写真なんです。この泣いちゃってる女の子がいて、こっちのタイ人の女の子も少し鼻を赤くして涙ぐみながらも、「また来てね」とか言ってるような感じのシーンは、なにか伝わってくるものがあります。ほんとうは、この日本人の女子学生の表情が見えた方が写真としては生きるとは思いますが。
 でもこの写真に引っかかったのは、いま、アジアというのは若い人にとってこういう場所になってきてるんだなあ、ということを感じたからなんです。というのは、もはやアジアは日本と異なった文化や生活を経験する場というよりも、本来、日本の中でも感じられたはずの人と人との純粋な触れ合いとか自分に対する素直な思いなどを、わざわざ感じに行く場所になってきているんだなと思ったんです。
 彼女にしてみれば、ここで初めて日本で感じられなかった何かを感じたのかもしれません。僕も含めこの世代は、本当は日本の生活の中で感じ持っていなければならないものを、感じないでこの歳まで来ている。それがタイに行って体験できてしまった。逆に言えば、同じ涙を流す機会を持ち得ない日本での日常や大学生たちの感受性、というか人と触れ合う気持ちが欠如しているという現在の状況を思わされた一枚でした。

●ドキュメンタリー賞について
編集部■ドキュメンタリー賞は応募数は六人と少なかったですが、前回よりも一段と向上したと思います。川崎さんは二度目の応募でしたし、全体に意欲が感じられましたが、ドキュメンタリー賞についてはいかがでしょうか。
吉田■今回はドキュメンタリー準賞を逸【ルビ(】へん【)ルビ】見【ルビ(】み【)ルビ】幸【ルビ(】ゆき【)ルビ】生【ルビ(】お【)ルビ】さんが受賞しました。逸見さんは三五歳ということですね。作品は、フィリピンのケソン市パヤタスのスラムのごみの山で暮らしている人たちを追った写真と文章です。ごみを拾って暮らさざるを得ない人々の生活を記録しています。彼らはいろんな危険に脅かされています。ごみの山が雨で崩れて生き埋めになった人たちがいたり。それでもこの場所を離れることができず、ごみの山で生活の糧を得て生きていくしかない人たちの写真です。これは、もうすでに二〇年、三〇年ほど前からこういうスラムのゴミを集めて暮らさざるを得ない人、都市部に流れ込んできた人たちのレポートというのは、雑誌やテレビ、本などで日本には伝えられていて、ニュース性としては新しい問題ではないんです。しかし、年月が経ってもまだそういったことが続いているし、これからもまだまだ続いていきそうだということなんですね。常に変わらない問題として厳然としてあるという事実をあらためて感じさせてくれました。ここで働いている親の世代もまたこのゴミの山で暮らしていたわけですね。昔は子供だった人たちが親になって、またその子供たちが働いているという図式、構造が、この写真と文章から見えてきます。事実にもとづいた写真と文章が組み合わされている。例えば、崩れたごみの山に生き埋めにされて、まだ遺体が発見されていない人がいて、その遺体の一部だと思われる腕がゴミといっしょにアップで撮られている写真。こういうところに、現実の断面がくっきり現れています。これからもこの問題をさらに追究していってほしいですね。たとえばこの人たちが住んでいる場所、どんな家に住んでいるのか、ゴミから得たものをいったいだれに売って、いくら報酬を得ているのかといったことですね。一つの事実から深く掘り下げていく入り口に立ったという意味で、ドキュメンタリー準賞としてふさわしいんじゃないかと思って、推しました。
 川崎けい子さんの作品は、前回応募してきたテーマ、アフガニスタンからパキスタンにやってきた難民キャンプのことをさらに詳しくレポートしています。この問題もやはり二〇年以上前からある問題で、いまだに世界で最大人数の難民はアフガン難民であるにもかかわらず忘れ去られようとしています。前年よりずっとよくなっていますが、もっといろんな事実を提示する写真の多様性がほしい。このテーマと人たちがどんなかかわり方をして、どれくらいの期間滞在してるのかといったところが、なかなか見えてこなかったところがありますね。努力は評価したいと思います。
 あと、ビルマの子供たちを追った上野雅之さんのドキュメンタリーですが、ビルマでは貧富の格差が出てきて、学校に行けない子供たちも出てきてるといった写真ですね。これも写真もテーマとしてはひじょうによくて惜しいなと思うんですね。たとえば、葉巻を街角で喫【ルビ(】す【)ルビ】っている少年の写真。表情の暗さ、楠山さんがおっしゃったんですけど、この手つきはもう大人の手つきっていいますかね、この仕草。少年は、どんな暮らしをしてるのか、ストリートチルドレンなのか孤児院にいるのか、あるいは家族はどこかにいるのか。そういった少年の背後にどんなものがあるのか、この少年の昨日、今日、明日というものにひじょうに興味を惹かれるんですけども、そこから、せっかくこの少年を糸口にビルマの子供の問題ですね、貧困とか貧富の格差、それから都市化がだんだん進んでいる変わりつつあるビルマの社会の中での子供がどうなっているのか、教育はどうなっているのかといったところに、事実をこれから探究していく入り口がここにあると思うんですけど、残念ながら、写真も文章も、素通りしてしまっている。全体に何か、この人の印象記になっています。事実を持って提示するというところに至っていない残念さがあって、今後、頑張っていただきたいなと思います。
 ドキュメンタリー賞の応募がだんだん点数も増えてきて、写真と文章、それぞれ意欲的なものが出てきたので、また来年が楽しみです。
染谷■今、吉田さんからドキュメンタリー部門のお話がありましたが、このドキュメンタリー部門というのは、みなさん組写真ということで応募されています。それと、ドキュメンタリー部門じゃなくても組写真の応募もたくさんいただいていますので、この組写真について、少しお話しておきたいと思います。
 まず、はっきり言って組写真になってるものは一つもありませんでした。というのは、組むというのは写真をただ複数ならべればいいというものではなくて、一枚の写真では伝えられないもの、明確にできないものを、五枚なら五枚の写真を使うことで見せていく、または写真を複数使うことでより豊かなイメージを作り出す。そんなところに組み写真があるわけです。同じところで撮った写真を五ならべれば、それで組写真かというと決してそんな簡単なものではないということです。
 僕は写真学校でよく学生たちに、自分が伝えたいものを五つの因数に分解するということを考えてみろ、と言います。そのとき五枚がそれぞれ役目を負っていかなければならないわけで、その役目の与え方を考えていけばおのずとそれが組写真になっていくんです。だから、いろんな変化のつけ方があると思いますが、ひとつは被写体そのものの変化。先ほどのアフガン難民キャンプの写真で言えば、引いて離れて遠くから撮ったキャンプ全体の写真がある。また病気で苦しんでる子供を抱えた母親の写真がある。その後、また子供の写真、母親の写真と同じようなものが重複してしまっている。せっかく五枚使えるのだから五枚に変化をつけていってほしいわけですよね。もう内戦直後ではないのだから、難民キャンプと言えどもそこには生活がある。どういった生活をしているのだろうか、煮炊きをしている、水はどうしているのか、彼らはいつもそんな辛い表情をしているんだろうか、そこには楽しみは何もないんだろうか。どんな将来を思い描いているんだろうか。そんなことを五枚を使ってうまく描き出す。そういった被写体の変化を考えていってほしい。
 今回組写真として応募された方々もどんな五枚が可能であったかということを考えてみていただきたい。少なくとも、起承転結をつけていくとか、遠近で全体から細部に寄っていくとか、朝夕など時間の違いに光や生活の変化を見つけるとか、また撮影そのものもアングルの変化とか交換レンズの変化をつけていくなどの工夫をしなければ、なかなか組写真にはなりづらいんじゃないでしょうか。組写真を完成させるということは被写体と深く関わることにもなるんです。来年度は多いに期待したいと思います。

●選考を終えて──次回のために
編集部■ありがとうございました。全体を振り返り、次回へ向けてのコメントをいただきたいと思います。
吉田■アジアウェーブの写真コンテストは、今年で六回目ですね。毎回、いろんなアジアに出会える、アジアに生活している人たちに出会える、アジアの多様な世界が見えるひじょうに貴重な場です。こういったアジアに絞った写真コンテストは他にないので、今までの集積を考えるとあらためてとても貴重だと思いますね。先ほども同じようなことを言いましたが、今年は、この風景の中に入っていきたい、この人のそばで、このおいしそうなものを僕にも食べさせてほしいとか、いっしょに、横にゴロンとなって寝転びたいというような写真が少なかった。それはどうしてなのかな、と考えてみると、やはり染谷さんがおっしゃった、最初にカメラがあって、被写体を被写体としてしか捉えていない写真がちょっと多かったのかなと思います。それから、上位に残った写真の中にもそんな写真があったということだと思うんですね。撮影ツァーに行って撮ってきた写真も多かったということですかね。まあ、それは一概に否定できないことなんですけども、やはり、もうちょっと、被写体と撮っている人のですね、対話といいますか、そういった交わりが伝わってくるようなものがほしいですね。ドキュメンタリーというのも、こちら側、一人だけで成立するもんじゃなくて、コミュニケーションの中でいろんなものが引き出されて現れてくるわけですね。写真もそうだと思います。シャッターを押してるのは本人なんですけど、シャッターをそこで押さしめてるといいますか、そこに、その人に、その場所に、その風景にレンズを向けてシャッターを押したくなるようなものを、人物なり、光景なり、風景なりがこちらに何かを投げかけている、呼びかけてきている、それと上手く溶け合ったとき、こちらの呼吸や感覚がマッチしたときにいい写真になるんじゃないかと思うんです。写真をとるときのコミュニケーション、特にグループで撮影旅行なり最初から被写体を求めていった場合、たとえば、この限られた時間のなかでどのように人々と世界と対話していくのかというところを考えて、工夫しながら撮っていくとさらによいものになるんじゃないかなと思いました。それが今回受けた総合的な印象ですね。
楠山■今年は、猛暑が続いていまして、いまクーラーは入っていますが、そのなかで午後一時から始めて、いますでに夜九時を回っています。去年も、かなり悪戦苦闘して、三人の審査員がお互いの意見を出し合い、正直に作品にのっとった意見を出し合えば合うほど、意見が長引いて、それでも八時半くらいには終わったんですが、今日は九時を過ぎています。いかに写真の審査というものが難しいかということをあらためて考えさせられると同時に、僕たちはこの審査に臨むにあたって本当に体調を整えて、気合を入れて、撮った人のレベルの迫力以上に持っていかないといい写真が見つからないんではないかと思いました。こちら自身がレベルダウンしてはいけないというなかで、何とか一生懸命やらせてもらいました。
 こういう結果になりましたが、二〇〇一年という時代を過ぎて、これからアジアがどんな風に変わっていくのかというのは、いま、日本の外交もいろいろ危ういこともあって、沖縄でも、女の子が暴行を受けてもいまだに地域協定があるとか、中国はどんどん発展している、韓国も教科書問題で揺れている、そういうかつてない波乱含みの時代を迎えようとしていますけども、そういう中で僕たちが今アジアに向かってカメラを持って写真を撮りに行くというのは何なのか。それは、ドキュメンタリーを撮りに行くということで難しく考えることもないんですが、ただ、これは教科書問題と同じなんだけども、踏んだ人は痛みがわからない、踏まれた人は痛いということですね。写真もカメラも時には凶器になるわけで、撮った側はいい作品だといっても、撮られた側は、あんな写真撮りやがってとかいうことがあります。撮ってはいけないものというのは本来人間の間ではないはずなんですが、それもやはり、撮り手の問題と思うんですね。心して、本当にその人がアジアの人々の生き方に共鳴し、そしてそこから自分たちが何か感じ取ったものを何とか写真表現したいという本当にホットな情熱というのがあれば、相手の方も本当だったらNOだけども、あんただったらいいよというような状況もありうるわけで、シャッターというのは本当に軽くて指一本で押せて写真が撮れるわけだけども、その指の先にどれだけの命の重さを感じながら撮らなきゃならないかということも感じて撮ってほしいなと思います。
 もちろん、いろんな楽しい写真、軽い写真もけっこうです。でも今回見てみると、何かアジアが近くなった分だけ、大変軽く捉えているような様相が大きくなってきています。チャンスが多くなった分だけ、どうも自分の視点といいますか、自分とカメラを通したつながりというのが、もしかするとマイナス方向に動くんではないかという危惧もあります。自由にアジアに行けることが写真にとってはむしろとっても不幸なことになるかもしれない。そうではなくて、やはり本来の、写真によっていっそうアジアとの仲が深まる、理解が深まるという方向に持っていけたらいいなと思います。
 組み写真の問題が出ましたけど、毎回毎回組み写真というのは難しくて、本当に僕たちが納得させてもらえる組み写真が少ない。場合によっては、単写真、つまり一枚写真と分けた方がいいんではないかという話も出ました。つまり、組み写真が一枚でもそろっていなければ駄目なんですが、そこまで厳しくしたくない気持ちもあります。しかし、一枚写真という完成度の高いものを求める写真と、組み写真というのはまた意味が違うので、分けた方がいいのではないかと編集長にこれから提言したいという気持ちもあります。
 それから、ドキュメンタリーの部門も、まだこれからですけど、通常ドキュメンタリー写真というものがどういうふうに皆さんに受け止められているのか、そのへんは、たとえばアジアウェーブの誌上を借りてなり、こちらの施設を借りてですね、講座を開いてみてはどうかなとも思います。そして皆さんにもう少し、決してプロになる姿勢は必要ないですけども、ひとりの人間としてアジアをドキュメントしたいということを、どういう基礎的なことを学びながらやっていったらいいのかということも、もしかしたら我々も、もうちょっとお手伝いしなきゃならないのかなとも思っています。作品数が例年になく多くなったことは大変喜ばしい。それだけにこれから一枚一枚の写真を大事にしながらアジアとつながっていってほしいなと思いました。
編集部■ありがとうございました。第6回アジアウェーブ写真コンテストの作品はほぼ全員インターネット・ホームページ上にさらに詳しく順次発表されます(http\\\wwwYasiawaveYcoYjp)。皆さんがお寄せ下さったすばらしいアジアの世界をぜひこちらでもご覧になっていただきたいと思います。アジアの生きた人々の姿が皆さんに何かを語りかけてくれると思います。御応募いただいた方々に心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。
(二〇〇一・七・二一/アジア文化社にて)

選考委員

楠山忠之
吉田敏浩
染谷 學
染谷 學
そめや まなぶ

フリーカメラマン
1964年千葉県生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
アジア・日本の民族を中心に取材
日本写真芸術専門学校講師
日本ジャーナリスト専門学校講師
「写真展/生きてゆくカレンの人々」「Calcutta」など
第6回 アジアウェーブ写真コンテスト 発表
2001 THE 6TH ASIA WAVE PHOTO CONTEST A5