1.38度線を超えて
金日成、李承晩の別荘
眼前の北朝鮮は霞んでいた。
二〇〇九年夏、38度線を超え韓国東海岸の国境の町・束草から約五十キロ北にある統一展望台に立った。あいにくの霧雨が薄手のカッパを通してじめじめと肌を濡らす。多くの人たちが望遠鏡に食い入っている。レンズの先には大国の論理に翻弄され、半世紀以上もたった今も離ればなれ人生を余儀なくされた同胞たちがいる。天気さえ良ければ分断の象徴といわれる金剛山が見えるはずだがこの日はかなわなかった。そんな中でも霧の彼方の山々を背に記念写真におさまる者、静かに手を合わせる者、そしてただ黙して胸の中で誰かに語り続ける者がいた。
東海岸の国境に私を誘ったのは韓国人で同僚の目白大学教授の金敬鎬先生だった。かつての百済王国のあった韓国の西海岸から、大田、大邸などの中部地方、木浦、珍島などの西南海岸、釜山、蔚山の東南海岸一帯をこの数年、訪れているが東海岸は縁遠かった。今回の旅は、中国と北朝鮮の国境線である鴨緑江沿い、今は中国領となっているかつての王国・高句麗のふるさとを訪ねるのが目的である。その途上、私の足を東海岸に向けさせたのは、「38度線を越えて北朝鮮を見に行きましょう」という金先生の一言だった。
「38度線を越える?!」
一瞬、おやっと思った。
38度線は、南北朝鮮の国境ではないか。それを超えるとは?
それに二〇〇八年七月、金剛山観光で韓国の女性が北朝鮮軍兵士によって射殺されて以来、ツアーは中止されているはずだ。いぶかしがる私に畳みかけるように金先生は言った。「一九四五年、米ソによって一度は38度線を境に分割されたが、一九五〇年の朝鮮戦争の激戦で韓国軍は東海岸では38度線を越えて束草からさらに北の奥地を占領した。しかし、逆に西海岸では開城など38度線の南の町を奪われてしまったんです」
つまり、現在では38度線が国境ではなく、朝鮮戦争後に引かれた休戦ラインである軍事境界線こそが事実上の国境となっているのだ。南北ベトナムの分断は北緯17度線のベンハイ河だった。日本人の多くが朝鮮半島の分断は38度線であると思っている向きが多いが、そう簡単な話ではなかった。
38度線越えの束草までの旅程は長かった。
三日前に、東京・羽田を飛行機で発って博多でレンタカーを借り、佐賀県の名護屋城跡、平戸、長崎を経て、下関から関釜フェリーで釜山へ。釜山から高速バスで江陵、そして束草へ。関釜フェリーの船中泊を含め二泊三日で何と延々、二千キロを超す行程をこなしてきたのだ。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とは一体、何だったのか。私と金先生とはこの数年、ずっとこの問題を追究してきた。朝鮮半島に甚大なる被害を加えた秀吉軍の、その代表的な武将・加藤清正も海を渡り釜山から蔚山へ、そしてこの束草を越えてさらに北へと進軍した。
五十九年前の朝鮮戦争ではこの束草は南北同胞の肉弾が炸裂する激戦地となった。北から南へ移住した人たちがたくさん住んでいる。束草から統一展望台を目指す海岸には物々しい鉄条網が延々と続いていた。北から海を経て侵入するのを警戒するためのものだ。しかし、その所々で鉄条網が切られ、海水浴客のためにビーチが開放されている場所もある。時折、車道を隊列を組んだ若い兵士を通り過ぎていった。だが緊張感は微塵もない。
統一展望台から束草に下る途中、ヘーッと感心したものがある。韓国の初代大統領・李承晩の別荘が現在、記念館として残っていたことである。北の金日成主席が構えた別荘も近くの花津浦に現存するという。昔からリゾートして名高い東海岸のこの地に、南北の権力者がそろって別荘を構えたというのが私には興味深かった。
2.黄海の船旅
金大中さんの逝去
この日、ソウルの町は静かだった。
金大中元大統領が病気で亡くなったとの訃報に接したのは、私たちが下関から釜山に向かう関釜フェリーに乗り込もうとしているときだった。一緒に待合室にいた韓国の人たちも日本人もテレビに釘付けになった。それはフェリーに乗船してからも続いた。それから国葬が開かれるまで韓国各地で金大中元大統領の死を悼み、霊を慰める焚香所(焼香所)が設けられ、焼香する人たちの列が続いていた。私も金先生に誘われて焚香所を訪れた。対応してくれた民主党関係者は、勿論、外国人の私でも穏やかな表情で返礼した。金大中さんは、朝鮮半島の現代史を語るときに後世まで名を残す立派な人物である。韓国が世界に誇る大人物だと私は思う。現在の韓流ブームを起こすきっかけをつくったのも金大中さんだ。朴大統領の軍事政権下で様々な弾圧を受け、何度も転んでは起きあがった不屈の人である。私は、焚香所で手を合わせ冥福を祈った。
束草からソウルに移動し、ソウルで一泊した後、私たちは仁川からフェリーで中国・遼東半島の丹東へ向かった。昨夏の山東半島・青島に次ぐ中国への船旅である。
仁川港国際ターミナルにはすでに大勢のツアー客が詰めかけていた。
地元・仁川の大学生たち六、七十人に混じって初老の団体が目に付いた。私たちが参加する韓国の旅行会社OKツアーの一団だった。私たちと初老の夫婦、それに五十を過ぎたあたりの旅行会社の社長さんを加えたメンバーがこれから再びこの仁川に帰るまでずっと団体行動を取ることになる。
中国籍の「東方宝珠U号」は定刻通り午後四時半に港を離れた。
私たち十七人は二階の大部屋に一緒だった。貨物船を改造して貨客船にしたと思われる決して豪華なフェリーとはいえないが、私にはかえってそれのほうが嬉しかった。韓国の人たちの素顔が見られる。私は、浮き浮きしながら自分のスペースを確保した。周りには初老グループの十三人が居座った。その十三人をはさむように向こう側に夫婦が陣取った。旅行会社の社長はどうも一等船室のようだ。やかましい大学生たちのグループは一階下の大部屋にいた。
通路をはさんだ大部屋は中年女性の一団が陣取っている。旅立ちの興奮からか女性たちの声はテンションが高く弾んでいる。何の話でもどんな仕草も可笑しいらしくそのたびに高笑いする。しばらくして男たちが花札をはじめた。すると中年女性たちのグループも花札をはじめ、あっちでもこっちでも花札を囲む輪ができた。
花札に参加しないでいた隣の男性がニコニコしながら話しかけてきた。金先生を通しての話では、同じ職場だった元公務員で定年になっても頻繁に集まる仲良しで、山登りを楽しむグループだという。七十歳というこの会の会長は穏やかな表情で自分の人生を語り始めた。
「七〇年代、本当に苦しい時を生きてきた。いまの若いモンは俺たちの苦労を知らない。豊かな生活は天から降ってきたと思っている。ベトナムとかパキスタンからの労働者に汚い嫌な仕事をさせて……。これからどうなるのか不安だ」
七〇年代、朴時代にアラブで出稼ぎ労働者として汗を流す韓国の人たちの姿を見た、という私の経験を語り、いまの若者観について「日本も同じですよ」という私の相槌に気をよくしたのか、彼は益々饒舌になった。
先ほどからずっと続いている金大中氏の死を悼むテレビ報道を目にしながら、彼はことばを繋いだ。
「(南北の)統一は難しいかもね。アメリカが放っておいてくれたらあるかも知れないが……。それにロシア、中国も絡んでいるからね―」
「しかしベトナムもドイツも統一できたんだから、大丈夫じゃあないですか」という私の慰めにも似たことばに、「うん、そうかもね」と笑いながら、花札仲間の一群に混じっていった。
3.丹東の朝
鴨緑江の渡り鳥 青年ガイド君のこと
十四時間余をかけて北朝鮮の領海を避け、ひたすら走り続けてきた我々の船は午前六時すぎ、薄ぼんやりと靄のかかった黄海から鴨緑江の入り口にさしかかっていた。オイルの匂いが漂う甲板には、すでに何人かがカメラを構えていた。船は今までとまったく変わらぬ速度で鴨緑江を遡航し始めた。行く手の左は中国・遼東半島の付け根にあたる。右は北朝鮮である。かすかに煙って北朝鮮の陸地と奥に山々が見える。渡り鳥が群れをなして中国側から北朝鮮へ、西から東へと飛んでいった。三角形の雁行となった渡り鳥は、私たちの遙か上空を何一つ遮られるものもなく自由に渡っていった。「鳥はいいなー。国境なんて関係ないもんね」といつの間にか隣にいた金先生がつぶやいた。ツアー仲間の十三人も北朝鮮をバックに記念写真を撮り合っている。
午前八時半。丹東港に到着した。丹東は黄海から鴨緑江を約三十キロ入った所にある。中心街は港から車で三十分ほどだ。人口二三〇万。三十二%が満州族で、朝鮮族、モンゴル族など二十八の民族が住み、漢族は中心街に八〇万が住んでいるという。バスで丹東の中心街に向かう私たちの目は、ずっと右側の車窓に奪われていた。なぜならその風景の先は言うまでもない、北朝鮮であるからだ。狭いところは数メートルという川を挟んでの国境だ。稲田の向こうに時折、人影を見つけると一斉にカメラのシャッターが切られる。上空を幾組かの渡り鳥がゆく。柳が心地よい風に揺れていた。
ひとまず市内の韓国街で休憩した後、私たちのバスは高句麗のふるさと桓仁を目指した。
私たちのガイドは、ピョンヤン生まれで中国籍の二十代の若い男性だった。見た目には朝鮮族の血の方が多いように思えた。端正な顔立ちにユーモアもあって、二十代前半とはとても思えないしっかり者に思えた。幼い頃に父が亡くなり、母親がいまピョンヤンで小さな商いをしているという。
バス車内で、彼は進んで自分の生い立ちを話した。ハングルを解さない私だが、彼の表情を見ていて、北朝鮮関係者の今までに感じたある種の堅さが彼にはない。違和感もないのだ。柔和なその話しぶりは好感が持てた。ツアー仲間の韓国人からいろいろな質問が青年に飛んだ。金先生によれば、彼は、「三年前に中国に来て、自分がずっと洗脳されていたことに初めて気付いた」と言った。さらにピョンヤン生まれの中国籍で、北朝鮮と中国を行き来する自分について、「いまでは中国からも北からもスパイと疑われているかも知れない」と語り、「私の話をもしインターネットなどで出す場合、名前だけは出さないで……。お願いします」と言ったという。
ここまで話すか!
そう思うほど彼は淀みなく何でも話した。私は彼に信頼感を持った。そしてこの北朝鮮育ちの若者にシンパシーを感じ、彼の先行きに少々不安を感じるのだった。
バスの年配者たちは、彼から北朝鮮のいろいろなことを聞き出そうと、質問を次から次へとぶつけた。その多くは庶民の生活状況など経済的なこと、金正日の健康問題、等々だった。そのたびに青年はひるむことなく答えていたが、多くがすでにテレビ、新聞などで伝えられているもので、それ以上のものはなかった。
インターネットで韓国の事情を知っているつもりだった彼だが、初老たちとの会話を通じ自分の思っていることと現実とが微妙に違っていることにまごついている様子だった。金先生によれば、北に育った彼のことばも微妙に違うし、ジョークもなかなか通じないことがあるようだ。
その彼なら中国人だから韓国に行けるのではないかと思ったのだが、そうはいかないようである。ピョンヤン生まれの彼のパスポートは、ピョンヤンの中国大使館発給であるため、国交のない韓国、日本やアメリカなどには渡航できないのだ。今の国際情勢下では、生まれ故郷の北朝鮮と中国との往復を繰り返すだけの「籠の鳥」ということになる。自由な外の空気をいっぱい吸いたいと願う彼は五月から九月末まで、韓国からのツアーを相手にペクト山から鴨緑江沿いに広がる朝鮮族の世界、高句麗の故郷を中心にガイドを続けるしかないのである。
4.高句麗のふるさと、桓仁へ
満州族と朝鮮族の住む山間の村
一面に広がるトウモロコシ畑をああ曲がりこう曲がりしながら私たちを乗せたバスは一路、桓仁を目指す。二度の満州経験によれば、満州のイメージはだだっ広い広野と埃っぽく乾き切った空気だったが、鴨緑江沿いの朝鮮半島の付け根にあたるこの満州は緑多き山あり谷ありで、私の気持ちを大いに和らげてくれるものだった。遙かに続くトウモロコシ畑に混じって稲田が青々と実っていた。一帯はまさに緑野である。
バスは山間の貧相なガソリンスタンドで止まった。
到着を待ちかまえていたようにどこからか茹でたばかりのトウモロコシを売る女性が現れた。二本で千ウォン(約七十円)。誰も中国通貨ウェンを使う者はない。みんな何の抵抗もなく韓国のウォン紙幣を女性に手渡す。聞くと、「週に一回、定期的に丹東から両替商がくる」という。トウモロコシはモチモチ感が強く、日本のそれとは随分違った。
辺りの農家をみると赤茶けた瓦屋根はまさに満州の風景だった。ここは現在、遼寧省桓仁満州族自治区とよばれ漢族に加え満州族、朝鮮族が多く住む。肥沃な土地だが何といっても大田舎。数キロ先は吉林省である。
トウモロコシをほおばる我々に向かって青年ガイドは「ここは昔、朝鮮の村だったんですよ」と言った。
胃下垂にでもなってしまいそうな悪路が続き、しばらくして車窓に米国アリゾナのテーブル・マウンテンを思わせる大きな高台をもった山が飛び込んできた。
「あの高台に大昔お城があったんです。高句麗、最初の城です」と青年ガイド。五女山城と呼ばれる高句麗(紀元前三七年〜六六八年)初期の国都の山城である。朝鮮半島北部に勃興した高句麗は朝鮮民族にとって巨大な隣国・唐に向かってその存在を知らしめた誇りある王国である。
紀元三九一年に即位した第一九代、永楽太王(好太王、俗称で広開土王とも呼ばれる)の時代、百済、扶余など周辺諸国に遠征し、鴨緑江を越えた現在の中国領にまでその版図を広げた高句麗史上空前の繁栄を創出した王である。王の偉業を称えた「広開土王碑」は、桓仁から七、八十キロほど東に行った鴨緑江の沿岸の町、集安市に残っている。広開土王碑については集安を訪れた時に後に触れることにする。
同行の韓国人たちは一斉にバスを降り、遠くのテーブル・マウンテンを望んだ。多くがデジカメのシャッターを切りながら、真っ平らな山上の空に二千年の昔、堂々と天に向かってそそり立つ高句麗王国の山城をそれぞれが心の中に描いたに違いない。
当時、朝鮮半島を取り巻く情勢は穏やかではなかった。隋から唐へと移った中国の存在は脅威だった。唐はそれまでの隋とは違って強大な軍事力を背景に周辺民族を脅かしていた。朝鮮半島は、その都度、大国の論理に翻弄されながらも三国統一後、何とか新羅、高麗、朝鮮王朝と歴史を刻んできた。しかし、一九世紀になって、西欧列強による軍事力を背景にした新しい秩序を求めるグローバリズムの波が泰平の李氏朝鮮を襲う。その後の半島の苦労はここで語るまでもないだろう。
二一世紀になった今、火種として残る朝鮮半島の南北統一について、ツアーグループのリーダーが「なかなか難しい」と語ったことを冒頭で紹介したが、難しくしている背景に彼は「アメリカの存在」を指摘したが、私は実は「中国の存在」の方がより大きい思っている。しかし私は彼にそれを言わなかった。韓国におけるアメリカの存在の大きさは理解しているつもりだが、私はアメリカ一辺倒の現代の国際情勢を否定するアジア重視論者と思っていたのだが、グループリーダーのアメリカへの堅い不信感を耳にした時、自分の考えに甘さと隙間があることに気付いたからだ。
統一を困難なものにしているのはアメリカなのか、中国なのか。この考え方の違いは、私が韓国人であるかどうか、当事者であるかどうかにかかっているのかも知れない。
北朝鮮による核実験など一連の強行策について、今まで国連安保理が制裁決議をしても常任理事国である中国の拒否権により、なかなか国際社会が足並みをそろえられないのが現状だ。北朝鮮が耳を貸すのは今や中国だけとなった。ロシアが近年復権してきているとはいえ、かつてのソ連ではない。中国がそれなりの動きを見せれば北朝鮮に何らかの進展が見られると思うのだが、「北を追い込んでは行けない」と暴発を恐れ、中国は自分たちの利害を優先するあまり、結果として北の金正日体制を支えているのだ。それもこれもアジア大西洋戦争が終結し、その後、アジアにおける東西冷戦構造のスタートとなった南北分断。そして直後、ソ連のバックアップで金日成率いる北朝鮮が起こした朝鮮戦争でアメリカを中心とする国連軍が介入。米国中心の国連軍が鴨緑江に深く進軍するに及び、新生・中国が北朝鮮を助けるべく鴨緑江を越えて援軍を差し向けた。以来、中国と北朝鮮は血の結束を維持してきているのである。しかし近年の北の行動に対し、中国は「困った息子。きかん坊の駄々っ子」と少々扱いに困惑しているように思える。いままで駄々をこねれば何でも貰えたため、ついに核爆弾まで持ち出して、ねだるという始末だ。
5.ペクト山へ
高句麗と渤海をめぐる中韓論争の背景にあるものは
ペクト山(白頭山)。中国名は長白山。標高二七五〇メートル。古来より朝鮮半島やこの地に暮らす人々によって聖地として崇められてきた。朝鮮民族発祥の聖山といわれ、北朝鮮の金正日総書記が生まれ、故金日成主席の抗日闘争の拠点だったとされており、「革命の聖山」とも呼ばれている。また、清朝時代には支配民族であった満州族の発祥の地として特別視され、一六七七年と一七七六年には二度にわたって入山禁止令が出されたほどである。中華人民共和国成立後は、一九六〇年に長白山自然保護区として指定され、この地区に生息する動植物を保護している。休火山で中国の名山であり鴨緑江の源流ともいわれる。
そのペクト山だが、日本と韓国、中国の研究グループによる最近の調査で、過去二千年間で世界最大級だった一〇世紀の巨大噴火に匹敵する大規模な噴火が九世紀ごろにもあったことが明らかになった。七世紀末から九世紀にこの地域に栄えた謎の古代王国・渤海(六九八〜九二六)は、この九世紀の大噴火によって滅亡したのではないかという新しい説が持ち上がっているのだ。渤海研究は長く政治的な理由で遺跡発掘が難しく、文献も少ないため研究が遅れていたが、年代測定法の進歩や冷戦の終結、中国の開放政策の進展で解明が進んでいる。
満州族の聖なる山だ、いや朝鮮族の聖地だ。はたまた北朝鮮の頭領様のお生まれになった聖なる地だといつの時代もその帰属をめぐって喧しいペクト山であるが、近年、この地域一帯が中国と韓国の間でホットな外交摩擦に発展している。中国側の言う「高句麗は中国の一地方政権だった」という、いわゆる高句麗論争である。高句麗の後にこの地に登場し、忽然と歴史の舞台から姿を消した渤海とが一連となって中韓での論争は熱い。
ここで論争の火種となっている高句麗と渤海について触れておきたい。
一九九一年に中国と韓国が国交を結び、その後、両国は貿易を通じ年々経済的な太いパイプで結ばれてきたが、二〇〇〇年に入った頃から、中朝国境をめぐるこの論争に火がつき始めた。最初に火種を巻いたのは中国だった。韓国にとって高句麗は、百済、新羅との三国時代を経て渤海に続く民族史の原点である。最盛期の五世紀前後には現在の中国東北部から韓国側までを治め、多くの韓国人が「かつての広大な領土に誇り」を感じてきた。そうした感情に水を差したのが、中国側の「高句麗=中国説」であった。さらに韓国では「渤海も高句麗から継承された国」「祖先が建てた国」といった思いが強い。それに対しても中国の研究者は、渤海を「中国辺境にあった数多い異民族国家の一つ」と位置づけ、歴史認識がまったく異なるのである。
渤海国は、農耕民の朝鮮族と狩猟民のツングース系靺鞨(まかつ)族を主体とした複合民族国家といわれるが、文献がすべて失われ、後継国がはっきりしないまま滅亡した。新説は、火山の噴火こそが消滅の大いなる理由であるというのである。
韓国では、中国から突然吹っかけられた高句麗論争と渤海建国の解釈は、「朝鮮半島の将来に備えた中国の戦略」ととらえている。朝鮮半島の南北統一が実現した折、高句麗の領土と重なる中国に住む朝鮮族が朝鮮半島との一体感を募らせ、独立運動に発展して統治が危うくなることを懸念して起こした論争ではないかと警戒心を高めているのである。
今しきりと韓国国内でペクト山と中国の朝鮮族を訪ねるツアーが盛んなのはこうした政治的な背景もあるように見受けられた。高句麗の歴史は当然、韓国の小学校からしっかりと教え込まれる。高句麗に関しては自分たち朝鮮族の誇りある民族の歴史であるとたたき込まれてきたことが、思いもかけない中国からの論争に政府もメディアも韓国国内の世論を喚起させなければいけないと考えたに違いない。
ペ・ヨンジュン主演で、日本でも評判になった韓国の連続テレビドラマ「太王四神記」は高句麗王国を盤石にした広開土王の一代記であり、「テジョヨン(大柞栄)」もまた唐と新羅によって滅ぼされた高句麗を再興し渤海を建国した将軍の一代記である。高句麗に絡んだ韓流ドラマが突然、堰を切ったように登場してきた背景にはこうした事情があったのだと思うと合点が行く。
さて、桓仁の山城を遠くに見て通化市のホテルに昨晩遅くに到着した私たち一行は、翌朝、六時一五分にペクト山を目指した。ペクト山の登山口にはバスで四時間の行程である。早朝、まだ夜が明けぬというのにホテルの周辺は人、人、人でごった返していた。ホテルのすぐ脇の道いっぱいに長蛇の朝市が開かれていた。白菜、ピーマン、ジャガイモ、タマネギといった野菜から豚肉、鶏肉、牛肉、魚、等々。庶民の家庭に冷蔵庫が完備されていないため、こうして毎日、生鮮食品を買い求めるようだ。キムチ、冷麺、唐辛子といった朝鮮族の生活必需食品も所狭しと店を張っている。
近くの公園の一角からは、朝鮮の太鼓の音が聞こえてくる。朝鮮族の中年女性たち二十人ほどがグループになって、リーダーの手拍子に合わせて鼓を打つ。ドンドンドドンという太鼓の音色が澄み切った早朝の空気を打ち破って一日の始まりを告げているようだった。
6.雨のペクト山
にぎわう中朝国境の山 祈る女性の姿も
ペクト山に登るにはいくつかのルートがある。
私たちは、西の端、松江河鎮口からだった。バスはうねうねとアスファルトの山道を登り、恐らくは二千メートルを超えるほどの高さまで私たちを運んだ。そこで別のバスに乗り換え、富士山で言えば新五合目になるような大きなターミナル基地まで行く。そこから頂上まで一二三〇段の石段を登った。
霧雨の中を薄くなった空気を肺に精一杯吸い込んで登り始める。素手が寒い。雨合羽を着込んだ中国、韓国からの登山者たちが興奮した高い声を張り上げながら元気よく登ってゆく。結構きつい。お年寄りたちもゆっくりだが諦めることなく、頂上に向かって一歩ずつ足を運んでいた。幼子の手を引っ張って登る父。元気よくポンポンと飛び跳ねて頂上を目指す若者。逆に「参った!」とふたり組の背負子の世話になって頂上を目指す年寄り。傘をさしたたま登山道の湧きで食事をする中国人家族。高山植物の写真を撮り続ける韓国人男性もいた。途中、金日成の顔が描かれた北朝鮮の紙幣を売る男が現れたり、山葡萄を売る男が現れたりもした。頂上まで四十分ほどかかった。
ところがペクト山の頂上は濃霧と雨で眼下にあるはずの長白天池は全く見えなかった。韓国の束草の統一展望台もそうだったが、日頃の行いのせいか、またまた目の前の北朝鮮をこの目でとらえることができなかった。
頂上では、とにかく記念写真を撮ろうとする登山者でごった返していた。中朝の国境を示す石標を囲んでVサインする若者、家族、私たち韓国のグループ……。
私は、何も見えない天池に向かって空しくカメラのシャッターを切った。
そんな中で、ひときわ私の目を引いたのは、北朝鮮に向かって手を合わせる中年女性の姿だった。印象的だった。喧噪な頂上にあって無心に手を合わせるその空間だけは静寂そのものだった。
ペクト山の天池は、ハルビンを流れる松花江、北朝鮮との国境を流れる鴨緑江の源流といわれる。この母なる河は東アジアの様々な歴史を見つめてきた。先にも触れたが、このペクト山の二度にわたる大噴火で火山灰や軽石が日本にも到達するほどだったという。その規模は、ローマ帝国の都市ポンペイを埋没させたイタリア・ベスビオス山の噴火の数十倍といわれ、東北大学などの研究グループの調査で、北海道や東北地方北部などでも火山灰が確認されている。
残念ながらペクト山の天池とそこから望む北朝鮮を見ることができず、私たちは再び通化のホテルに戻った。そのバス車中でツアー仲間の韓国人の一人がしげしげと一枚の写真に見入っていた。それは、まさにすっきりと晴れ渡ったペクト山の天池をバックに、その韓国人が一人立つ記念写真だった。驚きと大笑いの声を上げる仲間に向かって「五千ウォンだった」と彼は言った。仲間を待たせバスに最後に乗り込んだ彼は、乗り換えバスの中継地であるターミナルのスタジオで、何とこの合成写真を撮影していたのだった。
7.高句麗の都が広がる集安
広開土王碑の謎と世界文化遺産登録をめぐる中国・北朝鮮の思惑
ツアーの最大のイベントであるペクト山登山を終え、私たちは帰途、集安市を訪れた。ここは高句麗王国が西暦三年に桓仁から遷都し、四二七年にピョンヤンに遷都するまで四百二十四年間にわたって都を置いた、まさに高句麗王国だった場所である。
町のすぐ脇を鴨緑江が滔々と流れている。数百メートルほどの対岸の北朝鮮領は、まるでゴルフ場のように立木を無くした緑野の山々が続く。山間の巨大な煙突から白い煙が一筋になって天に上がっていた。「精錬所ですよ」とガイド君。そして対岸は「北朝鮮の満浦市です」と言った。
集安の最大の見物は、先にも触れたが広開土王碑と王・貴族の陵墓、今も残る平地の国内城、山城である丸都山城跡や町中の城壁跡など高句麗王国中後期の遺跡群だ。
再度、広開土王碑について書きたい。
この石碑は、広開土王の息子で二〇代王となった長寿王が父の功績を称えて残したといわれるもので、古代中国、朝鮮、日本との関係を知る上で大変貴重なものである。
高さ六・三九メートル、幅一・三四から二メートルの石柱の四面に王の業績が刻み込まれ、構成は全三段、文字総数一七七五字にも及ぶ。現在、判読できるのは一六〇〇字弱で、文中には当時の日本を示す倭国に関する記述も数カ所見られ、五世紀前後の日本史を知る上でも超一級の史料である。実際の石碑を前にすると、そそり立つような存在感豊かな石柱は素人目にも凄い歴史的遺物であることは分かる。
この碑文をめぐって一九七二年、日本と韓国との間で論争が巻き起こった。
論争は、明治一七年に広開土王碑の存在を見つけた大日本帝国陸軍の兵士が拓本を取り、持ち帰ったが、その際、陸軍の手によって日本の朝鮮半島進出に都合の良いように改ざん、解読されたといわれる説が持ち上がったのである。任那日本府をめぐる論争で、結局、二〇〇五年、中国の研究家によって日本軍によって書き換えられたとされる以前の拓本が発見され、書き換えられたとされる拓本と照合した結果、内容が完全に一致したことから、日本軍が古代に日本が朝鮮半島の一部を征服したという歴史を捏造したという話自体が捏造だったという顛末で決着した。
ともあれ日本と朝鮮半島をめぐる歴史認識は事ほど左様に反日的な感情も入り交じって、複雑な側面を描き出してきた。それにしても、この広開土王碑は古くから中学の歴史教科書にも登場する日本でも実によく知られた石碑である。
高句麗王国の歴史的解釈をめぐって中国と韓国とでも大いなる論争が展開されていると先に触れたが、その論争の根拠の一つがこの広開土王碑である。
碑文をめぐって解釈が異なるのである。
広開土王碑のすぐ近くにある東方金字塔(東方のピラミッドとも)と呼ばれる王陵墓は、韓国側では父の偉業を称えた土王碑の建立者・長寿王ではないかといわれるが、諸説あってはっきりしない。中国側が立てた案内板には、中国の一将軍である「将軍墳」となっていたのが印象的だった。それに追い打ちをかけるようにガイド君は中国側の理屈をこう話した。「もしこの墓が長寿王であるなら、自身がピョンヤンに高句麗の都を移したのに何故、長寿王の王墓がここにあるのだ」と。あくまで「高句麗は中国の一地方政権」との中国側の説を解説してみせた。
二〇〇〇年に入って中国では世界文化遺産の登録申請に先立って、この地域の遺跡発掘が積極的に行われた。その結果、高句麗王国の都が存在したことが判明。二〇〇四年、中国は「古代高句麗王国の首都と古墳群」として世界文化遺産の登録に成功した。ところが、同じような名が付いた世界遺産が同じ年に登録されているのである。「高句麗古墳群」と名が付けられた世界遺産で、申請者は北朝鮮である。
このことについて二〇〇九年三月二日付の朝日新聞「GLOBE」は、興味深い記事を掲載している。内容をかいつまんで言えば、もともとは画家の平山郁夫氏が一九九〇年代半ば、ユネスコ親善大使として北朝鮮を訪問した際、高句麗壁画を高く評価し、世界遺産登録を北朝鮮当局に促したことからはじまったという。平山氏は自費を注ぎ込んでまで北朝鮮に世界遺産登録を進めてきたのだが、いざ、登録申請という段階になって平山氏に「申請を一年延期して欲しい」と中国側から横やりが入った。その理由は、「吉林省、遼寧省にも高句麗古墳がある。片方だけ先に登録されると、あとから登録できなくなるので、同時登録が望ましい。どうか北朝鮮を説得してくれないか」というのだ。結局、中国には同時申請を約束させ、メンツを重んじる北朝鮮に「食糧や燃料など中国からのこれまでの支援の恩返しだと思ってちょっと我慢してくれませんか」と平山氏がなだめたと記事にある。
そして中国、北朝鮮がそれぞれ別個に登録申請し、同時に国境をまたいだ二つの文化遺産が誕生したというのである。
中国と北朝鮮・韓国との間で、高句麗王国の帰属をめぐって見解が対立する背景には、前述したように、北朝鮮の崩壊、統一、そして朝鮮民族の一体感による統治の乱れを警戒する中国側の政治的な思惑があることは関係者の間でいまや衆目の一致するところである。
まだまだ高句麗とその後継国家といわれる渤海について、研究が進んでいないが、素人ながら一つ言えることは、高句麗にせよ渤海にせよ、漢民族との関わりは薄く、その構成民族は明らかに、北方ツングース系の靺鞨、朝鮮、契丹、等々の複合的な民族国家だった訳だから、国境というセンシティブな問題を孕んでいるとしても、今更、中国がしゃしゃり出るのはいかがなものかと言いたい。
ここで文中に何度か登場してきた、耳慣れない靺鞨族について触れておきたい。
靺鞨族は、単一民族を指す名ではなく七つの部族の集合体といわれる。元々は中国の北方、黒龍江流域に在住した狩猟民族で、七、八世紀ごろ、温暖な地を求めて朝鮮半島の高句麗に進入した。農耕系の王国・高句麗に服属し、高句麗滅亡後も高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末(ぞくまつ)靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した黒水(こくすい)靺鞨に大別される。日本の北海道、東北地方にも多くの靺鞨が移住したといわれている。日本海沿いの人たちの祖先とも縁の深いツングース系の民族である。
――さて、話は変わる。
女真族(靺鞨の後裔)の侵入に対する防衛の要として造営された万里の長城は、今の河北省と遼寧省の省境にある。山海関と呼ばれた要衝は、漢族の支配する西側の中原に対し、東の地域を「関外」あるいは「関東」と呼んだ。明代まではいまの中国の版図には取り込まれてはいなかった。しかし、今、思えば清朝を打ち立てた満州(女真)族は、一体、何が目的だったのか。明を滅ぼし北京を支配したが、結局は漢民族と漢文化に取り込まれ、辛亥革命で崩壊した。そして明代まで満州地域の主権「独立国家」であった地域までも「全中国の一地域」として組み込まれてしまうのである。日本が推し進めたあの満州国という意味ではなく、渤海の後に多民族混合の「満州国」が存在していたら、高句麗にしても渤海にしても、歴史がもっとすっきり、分かりやすいものになっていただろう、と私は戯言を言いたいのだ。
集安の町を流れる鴨緑江にモータボートで繰り出した。
中朝の国境線である河の中間すれすれまで猛スピードで走り抜けるのである。大きな中国の五星紅旗をはためかせながら私たちツアーのメンバーが六人づつ分乗したボートは一度も停止することなく北朝鮮側すれすれに寄る。対岸の人影が見える。自転車を走らせる人、軍服を着た男性、魚釣りをする者……。私たちは、まばらな中に人影を見つけてはレンズを向ける。
集安の町中には北朝鮮の大きく派手な国営レストランがある。中国と北朝鮮両国の国旗が掲げられている。町中では私たちを見つけるなり、土の付いたまさに生の朝鮮人参を売りつける男性もいた。かつての高句麗の都・集安はいまも北朝鮮との隣り合わせで因縁浅からぬ地域であることは一目瞭然だ。
8.再び丹東
鴨緑江にかかる中朝の架け橋
私たちは、集安を出発して、最初で最後の訪問地となる丹東を目指す。
バスは鴨緑江の西岸をひたすら走り続ける。私は、バスの進行方向の左側に座りカメラを構えた。当然、左の車窓には北朝鮮があるからだ。北朝鮮は、時には数百メートルも離れるが、また時には数メートルほどの所まで近づく。付いたり離れたりしながらのバスの旅をこの日は楽しんだ。
ガイド君の説明によると、鴨緑江には百三の島々があり、そのうち三つを中国が管理し、残りの百の島を北朝鮮が管理しているという。島々の陰で北朝鮮の舟がゆっくりと釣りをする姿があった。
丹東は、遼東半島の東側の付け根にあたる。鴨緑江が黄海に注ぐ歴史的な港だ。中国と朝鮮半島とを結ぶ朝貢ルートにあたり、日本と中国とを結ぶ重要な中継都市であった。
丹東の見所は、何といっても北朝鮮にとって生命線ともいえる鴨緑江大橋。一九四三年に完成した全長九百四十六メートルの大きな橋で、現在は中朝友誼橋と呼ばれている。対岸は北朝鮮の新義州市である。トラックと汽車が時折、行き交う程度で往来は少ない。北朝鮮の核実験による国連の経済制裁の影響か。しかし北部の延辺朝鮮族自治州の図們(ともん)大橋とならんで北朝鮮と中国とを結ぶまさに大動脈であることに変わりはない。
ガイド君は目の前の橋を見ながら、「三年前、ピョンヤンから列車で初めてこの橋を渡って丹東駅に来たんですよ」と語り、感慨深い表情になった。ピョンヤンからは五時間かかったという。この巨大な幅の鴨緑江でも、集安のように観光客目当てのモーターボートが国境すれすれの走行を繰り返していた。そして大橋のすぐ脇に、ちょうど河の真ん中辺りで寸断され傷跡をさらしたままの鴨緑江端橋があった。朝鮮戦争で米軍によって破壊された鉄橋で、先端がひん曲がって戦闘の激しさを今に伝える役割を担っているようだ。
旅の最後は、虎山長城とよばれる明時代の山城を見た。
一五世紀に建造された城で、万里の長城の東端になる。現在は復元された長壁と山城がある。異民族の侵入を防ぐために防塁として造られた訳だが、その頂上に立つと、その足下には北朝鮮の田畑が迫っていた。
一緒に汗を流したツアー仲間の一人、旅行会社を経営する韓国人社長が、金先生にこうつぶやいた。
「昨晩、我々の乗ったバスが北朝鮮に入ってしまった夢を見た。慌てた、慌てた。もうこれで俺の人生は終わったかと思ったよ」
私たちも夢であったことに感謝し、丹東港を後にして出発地・韓国の仁川港に向けて帰国の途に着いたのだった。丹東を出て丹東に帰るまで二泊三日。バスの走行距離は有に二千キロを越えていた。
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【参考文献】
・「渤海国の謎」(上田 雄著/一九九二年、講談社現代新書)
・「日本海学の新世紀」(日本海学推進会議編/二〇〇一年、角川書店)
・「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著/一九九二年、中公新書)
・日本経済新聞二〇〇四年七月一七日付朝刊文化欄「渤海 ベールを剥がす古代王国」
・読売新聞二〇〇四年七月一一日付朝刊「白頭山一〇〇年に二回巨大噴火」
・朝日新聞二〇〇四年七月七日付夕刊文化欄「国境またぐ登録の意味」
・朝日新聞二〇〇四年八月一六日付朝刊オピニオン面「高句麗抗議騒動」
・朝日新聞Globe 二〇〇九年三月二日付「同じ高句麗で別々に登録」
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※ホームページ掲載にあたり、登場するガイドさんの情報を一部伏せました。(ホームページ担当)
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朝鮮半島の統一後をにらんだ高句麗論争
―高句麗のふるさと、中朝国境を歩きながら歴史の今を考えた
松本 逸也(目白大学教授・元朝日新聞編集委員)